このところ、サッポロ黒ラベルが1970年に展開していた「男は黙ってサッポロビール」という広告のコピーがよく頭をよぎる。僕が生まれる前のことなのでリアルタイムで知っているわけではないが、妙にしっくりくる。
サッポロビールのHPを調べてみると、当時のサッポロビールは女性的なイメージがあり男性を取り込むために男らしいイメージへの方向転換を目指しTVCMは音楽だけ、ポスターのデザインは単純化されロゴもラベルもない「黙った」広告で大ヒットを遂げたらしい。
「黙る」「単純化」…しっくりくる言葉。
少し2021年について個人的な振り返りをすると、
縄文時代に興味を持ち北海道や青森県の縄文遺跡を巡ったり、アイヌ民族への興味から阿寒湖にある「アイヌコタン」や白老町にある「国立アイヌ民族博物館」を訪れたり、古い街並みと美味しいものがある京都や金沢にも何度か訪れた。
縄文や古都の細かい話は、これから、かわラボの中で発信できればと思うが、いくつもの歴史の連続性に触れると自分の感覚が歴史と土地のなかで形成されてきたのがよくわかる。
縄文遺跡の土偶を眺めていると、人々が作った生々しさや衝動的に湧き上がる「可愛さ」に、日本のカワイイのルーツのようなものや自分の絵との共通点も感じられ、なんだかうれしくなった。人の営みのなかの今と変わらない何気ない喜びに、優しい手触りのような安心感を覚えた。
全ての行動や言動が情報化され消費されていくなかで、歴史的遺物に触れていると余計なことは不要に思え、なんだかとても黙りたくなってくる。
「余計な言葉はいらない」
そして、どこか細く長い芯のようなものが時代を超え貫かれている事実に
「僕らは、情報化されてもの以外何もわからない」
と実感してくる。
メディアから流される情報もSNSに溢れる膨大な情報も全ては都合のよいファクトであり点の集合体。その情報を個人が加工し都合のよいファクトに書き換え自己処理していく。本当のことはだれにもわからない。
「男は黙ってサッポロビール」から半世紀過ぎ、「男は黙って・・・」というほど男の悲哀を前面に出す時代ではなくなったが、男女問わず個人の内側から溢れる衝動そのものが環境に起因し、情報の断片を繋ぎ合わせた言葉も、湧き上がる情緒的感情も過去現在未来の連続性のなかで処理され過ぎさっていくように思う。
情報も情緒もとてつもなく複雑に絡み合ったなかに隠されている単純な本質に時代を超えるヒントがあるような気がしてならない。
「脱成長による成長、非コミュニケーションによるコミュニケーション」
「時間と空間の余白」
「黙る」や「単純化」から、こんなことを考えていると、ブログで何かを発信することも余計なことに思えてくるが、かわっちとしては、かわラボの中で時代を超えるヒントのようなものを手繰り寄せ、今後も黙って単純に発信し続けていきたいと思っている。
そして、そのなかで、ブー太郎やキャラクターたちを遊ばせていきたい。
遅くなりましたが、本年も、かわっちおよびかわラボ、そしてブー太郎と仲間たちをどうぞ、よろしくお願いいたします。