◆5歳時から音楽に触れてきた代表の次呂久(ジロク)が感じた「音楽業界」の負
代表の次呂久は1981年に沖縄の石垣島で生まれました。
沖縄県、特に石垣島は「音楽」が非常に盛んな地域として有名であり、音楽コミュニティがたくさんあります。次呂久は幼少期から音楽に囲まれて育ち、自身もギターを触ったりしていました。そして、学生時代に紆余曲折がありながらも、オーストラリアの高校に通うことになりました。オーストラリアでも音楽は続けていたのですが、そこで組んでいたバンドに対して、メジャーデビューのスカウトがきたのです。
メジャーデビューのスカウトに対して、バンドメンバー6名の意見が割れました。次呂久を含め2名は反対。残り4名はチャレンジしたいという意見。次呂久が反対した理由は「メジャーデビューをすると自分たちが目指している音楽をやり続けることが難しくなる」ということ。一定期間でリリースする曲数へのコミット、よりPOPで分かりやすい楽曲のプロデュースなど、自分たちの意志や想いだけでは音楽活動をすることが難しくなります。一方で、当時メジャー・デビューは「職業アーティスト」になるためのほぼ唯一の選択肢。制約を受け入れて、この道を進むのか。それとも、自分たちの世界観を守るために「職業アーティスト」への別の道を探すのか。メンバーの意見がズレてしまったのです。
21年前の当時、一言に「職業アーティストへの別の道」と言っても、一体それが具体的に何を指すのか?どんな選択肢や手段があるのか?全世界を見渡してもこの答えを見つけることは難しく、現実的には「メジャーに頼らない独立系・職業アーティストとして、音楽一本で生きることはほぼ不可能」と感じました。
アーティストは皆、自分の世界観を持っており、自由に自己表現をしたい志向があります。
現在はテクノロジーの進化によって、極めて安価に、高クオリティかつ自由な楽曲制作、そしてその音源の世界的な流通が可能となり、アーティストの自由な表現と発信を担保する環境が整っています。しかしながら、自由な創作環境があるだけでは「職業アーティスト」の成立には不十分で、「アーティストが音楽でお金を稼げる仕組み」が必須です。
海外では、この理想と現実の差分を埋める様々なサービスがここ5年ほどの間に急速に立ち上がり、「独立系・職業アーティスト」の増加に貢献している一方で、日本においては、その環境が整っているとは言い難く、これが「日本の音楽業界の負」と考えています。
◆音楽市場の歴史を変えた「チャンス・ザ・ラッパー」
アメリカ出身の男性ヒップホップアーティストです。レーベルと契約しない・音源を有料販売しないという従来の音楽ビジネスとは一線を画す活動形態でした。「独立系アーティスト」として、2017年、史上初めて音楽賞の最高峰「グラミー賞」を獲得し、世界的な音楽フェスのヘッドライナーとして出演するなど大きな成功を収めています。そして、今や年間40億を稼ぐ、トップアーティストです。
チャンス・ザ・ラッパーは「独立系アーティスト」の象徴であり、自身のチームだけで、楽曲制作、プロモーション、イベント制作などすべてのアーティスト活動を行ってきました。収入面でも、楽曲を一切販売せず、すべてフリーで提供することでプロモーション効果を最大化し、代わりにライブを軸にチケットやグッズ販売で収益を得る「アーティスト自身のフリーミアム化」で注目を集めるなど、常に自らの手で未来を切り開いてきました。
メジャーなどの組織に所属することも、完全自主の独立系として活動することも、それぞれにメリット・デメリットがあります。大切なのは、アーティストが自らの意志で自身のキャリアの方向性を選択できること。そのためにも独立系を望むアーティストたちが活躍できるような環境や仕組みを具体的な選択肢として創りたい。BEAMINGはそう思っているのです。