こんにちは!
株式会社エージェントグローで執行役員を仰せつかっております「早川 勇太(はやかわ ゆうた)」と申します。
「妻から”にゃんこ”って呼ばれているよ」と社長にポロッと情報漏えいしてしまったがために、いろいろな人から「にゃんこ氏」などと呼ばれるようになりました。
よろしくお願いいたします。
そんな私がどのような経緯で「河井の右腕(自称)」となったのか、幼少期のころからのエピソードを交えつつご紹介したいと思います!
オタクキャリアは小5の時から!
河井さんとの出会いについてお話しする前に、まずは簡単に自己紹介をさせてください。
生まれは鴨川シーワールドでおなじみの千葉県鴨川市。3歳の頃から「米沢牛」や「サクランボ」、「かねたん」や「なみかた羊肉店の義経焼き」が名物の山形県米沢市に生活のフィールドを移し、工業高校卒業後に上京しました。
現在36歳。つい最近「46億年に1人の美少女」がMy famiryにJoinしました(*´︶`*)✿
そんな私がITに興味を持ったのは、小学5年生ごろのこと。
当時の我が家は決して裕福ではなかったこともあり、スーパーファミコンなどのゲーム機とはあまり親交を深める機会がありませんでした。
そんなある日、伯父から「MSX(テレビに繋いで使うキーボード一体型のパソコン)」を貰いました。
このMSXはフロッピーディスクドライブがまともに動作せず、本体と一緒にもらったいくつかのソフトは一切動かせませんでした。
カセットテープでロードするゲームもあったのですが、決して小学生向けではなく……。結局唯一まともに使えたのは内蔵の「MSX-BASIC」くらいだったんです。
最初は何も分からない状態でしたが、松田聖子さんが表紙を飾っていた教則本と「マイコンBASICマガジン(ベーマガ)」を片手に悪戦苦闘する毎日。
少しずつ理解が深まり、いろいろなものを作る事ができるようになるにつれ、いつの間にかプログラミングが楽しくなっていた自分に気付きました。
それまでは秋山豊寛さん(TBS記者として活躍中に旧ソ連のソユーズで世界初の宇宙ステーションである「ミール」に行った方です)に憧れ、宇宙飛行士を夢見ていたというのに……。
今思えばこの「BASICしかまともに動かないMSX」に出会わなかったら、今頃宇宙に行ってたかもしれませんね(*´∀`*)
高2でサイバーテロの実行犯?!校内ネットワークを混乱の渦に陥れた!
そんな「プログラミング三昧」な小中学生時代を過ごしてたのもあり、高校選びも「プログラミングができるかどうか」が判断基準。
そんなに多くない選択肢の中から地元の工業高校(電気/情報処理科)を選んだのは、自然な流れと言えるでしょう。
高校進学後も四六時中プログラミングしまくっていた日々。当然普段の授業だけじゃ飽き足らず、空き時間でC言語を勉強したり不明点を先生に聞きまくったりしていました。
「何かを作る」楽しさに魅入られて、かつて「宇宙」に対して感じていたのと同じくらい、「プログラミング」に対して無限の可能性を感じていました。
多分、学校内でも「オタク」というか「そういうキャラ」として認知されていたんじゃないでしょうか。
そういえば高校2年生から生徒会に所属していたんですけど、生徒会室に配備されていたPCを独断でWin98とVine Linuxのデュアルブート構成にしたり……。
自分がネットワーク管理者だったら発狂するレベルで、かなり自由に弄り倒してましたね。
「発狂するレベル」と言えば、当時校内ネットワークをダウンさせたことがあるんですよ。大して知識もないのに、Linuxをネットワークに繋げようとしたのが原因なんですが……。
(その筋の方向けに書いておくと、自マシンのIPアドレスとしてデフォルトゲートウェイのIPアドレスを設定してしまった……っていうアレです)
「なかなかネットに繋がらないなぁ……」なんてのんきに試行錯誤していたときに、生徒会室の内線電話が鳴ったんです。
電話の相手は職員室にいる技術担当の先生。
開口一番、「なんかしたでしょ?そのPCシャットダウンして、職員室に来てくれる?」と一言。かなり深刻そうな声で淡々と話されていたのが記憶に残っています。
職員室に出頭した後、その先生から話を聞いた時はとてもビックリしましたね。無意識とはいえど、学校中のネットワークをダウンさせて業務を止めてしまったのですから。
いわゆる「サイバーテロ」に近いことしてしまったわけで、下手すりゃ退学になってもおかしくない状況。
でも、そんな悲観的な未来は現実のものになりませんでした。
その先生は、「なにがいけなかったのか」、「どのような問題をおこしてしまったのか」を丁寧に説明してくださり、「どうすればよかったのか」に至るまで細かく指導してくださったのです。
なんなら自由に使えるIPアドレスをひとつ払い出してくださって、「この項目にはこれを設定してみて」なんて技術的なアドバイスもいただいたくらいで。
その先生がいたから、今の自分がある。それは間違いない事実です。
自分は疫病神なのか?過酷な運命が待ち受けていた社会人生活!
高校卒業後は学校のあっせんもあり、都内の受託開発系企業に入社しました。
研修期間を経て、ITエンジニアとしてのキャリアがスタート。
その会社ではCOBOLの案件に従事して、大企業や宇宙にまつわる「ある組織」の財務系システムなどに携わってきました。「汎用系」ってやつですね。
COBOLだけでは物足りなかったのもあり、プライベートでもPHPの学習を行ったり、自宅サーバを運営して他者に貸し出したりしながらスキルを磨いていました。
(届出電気通信事業者のアレとかもやったので、結構本格的でした)
次第にPHPやLinuxの方が面白くなってきたある日、Web系の受託開発系企業に転職。
「ビジネスホテルにカンヅメで1ヶ月生活」なんてことも普通にありましたが、自分のやりたいことができる環境でスキルアップもできたので……。
私にとって、それ自体はさほど苦痛ではありませんでした。
ただ、その当時は違う意味であんまり安定していなくて……。
今だからこそ笑って話せる話なんですが、所属会社が潰れたり他社に吸収合併されたりともう履歴書に書くのが面倒なくらい所属がコロコロ変わってしまっていたんです。
その当時は1年スパンで会社に何か起こっていたので、「自分は疫病神なんじゃないか」なんて考えたときもありましたねw
「キミを雇用し続けることが難しいから辞めてくれ」なんて話をされたこともありましたから、私にとってはかなり大変な時期でした。
「この人なら騙されてもいいや」が河井さんのファーストインプレッション
そんな折、とある転職サイトに登録した直後くらいにオファーメールが届いたのが、河井さんとのファーストコンタクトでした。
雇われ社長をしていた河井さんから届いたオファーメールは、「なんでそこまで見てくれるの?」と驚愕せざるをえないようなもので……。
自分が書いた経歴とか凄い細かく見ていたようで、それらについてしっかりと言及されていたんですよね。テンプレじゃなくて、フルカスタマイズされていたというか。
いろいろ自信をなくしていたし、自分の市場価値にも不安を抱えていた頃だったのですが、半ば「もうどうにでもなぁれ♪」くらいのノリで面接を受けることに決めたことを覚えています。
当時のボクはほんとクソみたいなヤツで、面接開始時間20分前に到着したりしてました。「ビジネスマナーどこに置き忘れてきたの?」って感じですよね。
図々しくも受付電話で「あの〜、かなり早く着いちゃったんですけど、もしアレでしたら……」みたいなことをヌケヌケと言いだす始末で、今あの時の自分に出会ったら小一時間説教しちゃうと思いますw
「失礼が服を着てやってきた」みたいなアレですよ。
まあ、それはさておき、その後しばらく経ってから面接がスタートしたのですが、嫌な顔ひとつせずにいい笑顔で話して貰えたのを凄い覚えています。
面接の最中も私のキャリアや希望をしっかりと捉えてくれて、話しやすい空気も作って貰えました。面接用に取り繕った自分じゃなく、等身大の自分として話ができたような気がしましたね。
面接の終盤の心境を一言で言えば、「この人になら騙されてもいいや」って感じで。「この人の言うことが現実だったらいいな」ってのは凄い強く感じたんです。
当時はいろいろあって会社への期待とかも失っていた頃でしたから、「もしダメなら違う会社を探せばいいや」って考えもありましたしね。
あ、そうそう、面接の終盤でかなり印象に残ってるやりとりがあって、面接の終盤で河井さんから「どうですかね?」みたいな発言があったんです。
てっきり私は入社意思を問われてるのだと思って、「今入社の書類いただければ全部サインしますよ」って答えたんです。
その時の河井さんの表情は、「できることならぜひ皆さんにも見て欲しいな」と思えるものでした。驚きが全面に出ているというか、すごい微妙で複雑な笑顔でしたからねw
しばらく経った後に河井さんに聞いたんですけど、河井さんは別に入社意思を問いたかったわけじゃなかったそうなんですよ。意味合い的には「何か質問ありますか?」的なやつだったみたいで。
そもそも、私が入社するとも思ってなかったみたいですしね。
「書類も用意できていないから」ってことで正式な入社手続きはまた後日になったのですが、そんなこんなもあって河井さんが雇われ社長を務める会社に入社することになりました。
このあともいろいろなエピソードがあるのですが……。ちょっと長くなりましたので、続きはまた後日。
「後編」という形でアップさせていただこうと思いますので、ぜひそちらもお楽しみに!
[2020/07/09 追記]
後編をアップしました!