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2022年9月19日に創業者 野口 虎雄の生誕100年を迎えます

創業者 野口虎雄(本名:虎男)は、1922年9月19日 東松山市 西本宿 鈴木家に次男として生まれた。幼少期から大人を驚かせるような多才ぶりを発揮し、やんちゃながらも頭脳明晰だったことから、近所では「神童」と呼ばれることも。また、小学校時代は剣道を得意とし、県大会では優勝、代表として全国大会に参加することも度々あった。

1942年3月 日本大学高等工学校機械工学科卒業。学生時代は、川崎に住み映画監督を目指していた時期もあったが、卒業後の同年4月からは、日本鋼管株式会社に入社、川崎製鉄所に配属となる。

翌年の1943年には、軍属としてマレーシアに製鉄所を作る命を受け、物資の少ない国内を巡り機材を集め、船で運搬するもフィリピン近海で魚雷により全てを失う。自身は難を逃れマレーシアに到着。マレー半島を巡り機材の調達を行い、手に入った機材でできる溶鉱炉に設計を変え、鉄鉱石の産出するケランタン州タマンガンに溶鉱炉を建設。その人柄から現地の人達に好かれ、現地の人への技術指導にも携わり、教え子は後にマレーシアの科学技術大臣、ケランタン州の知事となる。

1946年2月、終戦により帰国。

翌年の1947年には野口住子と結婚、野口家の婿養子となる。

野口家は大地主であったが、農地解放で土地を失い、クレンザーの素となる岩山を所有していたことから、埼玉、東京、神奈川等の地域にクレンザーを販売した。

しかし、元来専門は機械工学であったため、機会を捉え、東松山市内にあるヂーゼル機器(燃料噴射ポンプ部品加工)の協力工場として、1951年に個人経営、野口製作所を創立する。

当時材料や納品はリヤカーで運ぶのが当たり前。市内で一早く車を手に入れたことから、周囲は目を見張った。また、ねじは旋盤加工が常識の時代だったが、県内で最初に転造加工を取り入れ、転造の信頼性を証明、効率生産の実績を誇った。

中小企業では技術的に不可能と言われていた研磨加工も成功させ、その技術の高さで「野口品質」を確立していった。

創業から2年後の1953年5月には、現会長の野口貴弘(本名:茂)が誕生。会社は、高度経済成長期の波に乗り、産業界の発展と共に順調に業績を伸ばし、雇用も拡大、学卒や障害者も積極的に採用し一企業として社会貢献を担った。

創業から11年後の1962年、事業の拡大を受け、野口製作所の工場を新設。企業価値を地域に根付かせる中で社会活動にも積極的に参画し、埼玉県や東松山市の繁栄に大きく貢献した。

一方で、従業員のことも家族同様に大切にした。従業員の家族とも絆を深めるために家庭訪問を実施、また若手社員の育成のための夏季青年学級を開催し、人材育成にも力を注いだ。

このように常に親身に人を思うその人柄から、多方面から請われ、幅広く要職を務めてきた。

<埼玉県内および東松山市内の各種協会、委員会等での主な活躍>

労務管理近代化推進委員、埼玉地方最低賃金審議会使用者代表委員(後の受勲に繋がる)、埼玉県警察官友の会 副会長、埼玉経営者協会 理事、埼玉県経営合理化協会 理事、埼玉労働基準協会連合会 理事、埼玉県電力協会 支部長、埼玉県労働保険事務組合 副会長、東松山市商工会 会長、東松山雇用主協議会 副会長、東松山文化協会 理事、東松山市社会福祉協議会 評議員、東松山市融資審査会 会長、他 多数

1995年、これまでの功績が認められ、勲五等瑞宝章を受章。

「企業は人なり」という創業者の価値観が、企業の価値観へと繋がっていく。

「なせば成る、なさねば成らぬ何事も。成らぬは人のなさぬなりけり。」というこの一言を常に念頭に持ちながら、必ず勝ち抜ける、という強い信念を持って工場経営を続けてきた。

1999年10月4日、「我が人生に悔いなし」の言葉を残し、多くの人々に惜しまれながら77歳でこの世を去った。

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