自分の価値と、これから
小学校・中学校・高校時代
基本的に人見知りだったため、仲のいい一部の友だちと遊ぶ以外はひとりでいるのが好きだった。本が好きになるのも自然な流れで、小学校・中学校ではすべて図書委員。委員会の時間も本を読んでいればいいという環境がナイスだった。
高校になると漠然とながら将来のことを考え始める。本が好きだったこともあり、本に関わる仕事がしたいと思っていた。当時の部活の顧問に進路について相談したような覚えがあるが、回答をしっかり覚えていないということは、たいした回答をもらえなかったのだろう。顧問が当時「ポパイ」を読んでいたという情報だけはなぜか覚えている。
その頃は、本に関わる仕事には何があるのかさっぱりわからなかったが(おそらく校正も知らなかったはずだ)、いま現在、子どもの頃からやりたいと思っていた本に関わる仕事ができているのは幸せなことかもしれない。
大学・専門学校時代
入学した大学は第一志望ではなかった。受験勉強で駿台予備校に通っていたが、第一志望を譲ってしまったのは景品表示法にある「不当な表示の禁止」に抵触するのではないかと思うのだがいかがだろうか。
しかし、この大学に入ったことが、後々自分の人生にちょこちょこ関わってくるので、結果よかったのかもしれないとも思っている。なので、第一志望をゆずってしまっても駿台予備学校を訴えるつもりはない。
大学在学中には就職活動を一切せず、国際ボランティアの専門学校へ逃げ込むように入学。入学試験はなく書類審査のみで入学が決まる学校だったが、3月30日というギリギリの日に願書を提出したにも関わらず、「お待ちしてます」の一言で合格した。
以降、学費と生活費を稼ぐために、深夜はココイチのアルバイト。専門学校を中退してしばらく、25歳頃までカレー専門店CoCo壱番屋のアルバイトを続けていた。給与明細を手渡される際に店長が発した「俺より給料もらってるなぁ…」の一言が忘れられない。
CoCo壱番屋・出版社アルバイト時代
アルバイトしていたのはFSココイチ新宿駅西口店(現・CoCo壱番屋新宿駅西口店)。深夜の時間帯責任者にもなっていて、新卒初任給よりもかなり多く稼いでいた。しかし、新宿駅西口店のあった思い出横丁が火事になり、他店へ異動。稼ぎも下がってしまったので、出版社でのアルバイトを始める。
もうその出版社はなくなってしまったが、八峰出版という時刻表の出版社で、ちょうどいいタイミングでアルバイトの募集があった。面接が終わって即「明日から来れますか?」という電話。翌日から数カ月ほど時刻表の数字ばかりを追いかける校正を担当した。『東京圏全電車時刻表』。自分が仕事として関わった最初の本だった。
編集プロダクション時代
八峰出版でのアルバイト契約が切れる際、編集長からもっと続けてほしいというオファーを受けるが断る。そろそろ25歳だし、正社員として仕事をしたほうがいいのではないかという思いもあり、編集プロダクションでの正社員募集に応募した。
社長との面接で「まずは◯◯万円から始めろ、な」という一言で合格。かなりの薄給ではあったし、今で言うところのブラック企業的なところもあったが、文章を書く際の基本は、この編集プロダクションでの2年間で学んだ。
編集者として最初に担当したのは、講談社発行のムック『東京・横浜クリスマス完全ガイド』。『東京圏全電車時刻表』よりも思い入れは強い。
しかし、2年間も薄給でやっていると、現実を冷静に見られるようにもなってくる(大学時代に就職活動しない時点で冷静ではないのだが)。この編集プロダクションを辞めて転職した元同僚の誘いもあり、別の編集プロダクションに転職した。
そこでは、主に書籍の編集を担当。前の編集プロダクションは雑誌メインだったため、これで雑誌と書籍の編集が一通りできるようになったと思い込んだ。以前より給料はアップしていたが、精神的にも体力的にも限界を感じ、会社を退職することにした。退職理由は「中国に留学するため」。
中国留学時代
30歳になる前には漠然と中国留学したいという思いもあったので、精神的・体力的に限界のいまはちょうどいいタイミングだと思い退職。留学準備に集中した。
留学先は四川省成都市にある四川大学。海外教育学院という語学留学専門の学部だった。成都を選んだのは、もともと三国志が好きで、歴史のある街に住んでみたいと思っていたこともある。
四川の火鍋は衝撃だった。店の前を通るだけで唐辛子の強烈な刺激のある香りに咳き込み、火鍋を何口か食べただけで耳が遠くなる。「3回くらい食べれば好きになりますよ」なんていう同学の言葉なんてまったく信じなかったが、3回で好きになってしまった。不思議なものだ。
留学中は、麻婆豆腐も数え切れないほど食べ、火鍋はそれ以上に食べ、授業にはたまに出席し、三国志関連の場所には何度も行き、武侯祠(劉備と諸葛亮を祀っている場所)ではアルバイトをし、日本人・中国人の友だちもでき、楽しく過ごしているうちにあっというまに約1年が過ぎてしまっていた。ずっとここで遊んでいたいと思ったが、もうリミットだった。
帰国以降
中国から泣く泣く帰国した後は、しっかり仕事するしかなかった。実は大学時代から考えていたおおまかな人生設計があり、30代はしっかり仕事をする年代として定めていたのだ。20代は人生勉強で何でもやりたいことをやり、30代で仕事の基礎を固め、40代以降は自分にしかできないことで生きていく。多少のズレはあるが、だいたいその方向性で進んでいるとは思う。
帰国後も派遣社員も含め2度転職はしたが、現在の会社、ジャパンタイムズではもう11年近く働いている。ちなみに英語は上達していない。
ライターとして動き出す
現在の会社では不満はないことはないのだが、その不満で退職するということはないレベル程度の大人にはなった。しかし、やりたいことができていないという不満(つまり書きたいという欲求ともいう)は、いずれ解消しなければいけない。そう思って動き出したのが2011年頃。
しかし、ライターとして、いくつかの出版社に売り込みライターとしての仕事も少しずついただけるようになっていったが、ふと疑問に思うことがあった。
「果たしてこの仕事は自分でないとできないことだろうか」
そう思ったときに、専門性の重要さを痛感したのだ。何か専門を持たないといけない。真っ先に浮かんだのが趣味でずっと飲んでいたビール。しかし、ビール専門ライターと名乗っても仕事はこない。知識も足りないのではないかという不安もあった。
そんなある日、新規オープンの店に行ってカウンターで飲んでいると、隣にどこかで見たような人が座った。ビールの本を何冊も出している、ビール専門のライターとしては第一人者とも言える人だった。
人見知りという子どもの頃からの欠点は引き続き自分の欠点だったが、「これを逃したら次はない」という強迫観念に似た気持ちもあり、勇気を出して声をかけてみた。
「ビールのライターをやりたいと思っているんです…」
その一言が転機だったのだと思う。
社員としての編集者とビアライターである現在
そこから日本ビアジャーナリスト協会主催の「ビアジャーナリストアカデミー」を受講。人とのつながりもできるようになり、『ビール王国』という専門誌でも記事が書けるようになった。
そして、日本ビアジャーナリスト協会のウェブサイトでも記事というか、「ビアレポート」というお気楽コラムを執筆。
この「ビアレポート」を100回書いた頃、単行本を書かないかというお話もいただいた。365日の記念日を取り上げつつ、それに絡めたビールを紹介するという本。もちろんありがたくお受けした。
その執筆当時(2014〜2015年)はかなり多忙で、さらに子どもが産まれたこともあり、何もかもまわらない状態。会社では育休を取得し、育児しながら毎日夜中の3時くらいまで執筆してできあがったのが『BEER CALENDAR』。初の著書である。
数カ月の育休が終わってからは職場に復帰。社内での編集者としての仕事は変わらないものの、ライターとして得たビール関連の知見や人脈を生かし、ジャパンタイムズ120周年オリジナルビールプロジェクトを企画する。これは、ある程度好き勝手に社外ライターをやらせてくれた会社への恩義でもある。
プロジェクトリーダーとして企画を遂行。社内関連部署や役員へのプレゼンはなかなか骨が折れた。コラボレーション相手は京都醸造、ブラッセルズ。この2社とのビールのレシピ共同考案、スケジュール管理、コースターデザインディレクション、ビール記事の進行管理、ビール開栓イベント開催など、大変ではあるが楽しい数カ月だった。ビールは2カ月で完売した。
今後はどうするのか
専門性を持たなければと思い専門としたビールだが、今はまた逆の立場になるべきではないのかと考えている。実際にいまの立場になってみると、詳しいビール情報を発信しているのはビールの中の人ばかり(ビール関係者だけでなくビール好き、マニアも含む)。
そうなると、ビール好きにとっては面白い視点で書かれていても、そうでない人にはひっかからない場合が多い。しかし、ビール好きを増やすには、逆の立場から正しい情報を発信するほうがいいのではないかと思うようになった。ビール好きは自分からどんどん情報を収集していくが、そうでない人はその人の立場で発する情報がないとひっかからないからだ。
cakesに企画を持ち込み、連載を開始したのもそういった理由から。専門メディアではない媒体で広めたいと思っていた。
こういった活動を通して、自分自身のブランディングができてきたのではないかと思っている。これは会社員でもフリーライターでも必要なことだと考えていて、自分の価値をアップさせることが所属している「場所」の価値上昇にもつながる。
そして、cakesや他のウェブメディアへの執筆を通して実感したのが、ウェブメディアのダイレクトな反響とアクセスの詳細。紙もまた魅力的なメディアのひとつで、今後も関わっていきたいと考えているが、いまはウェブメディアのスピード感により魅力を感じている。
このウェブの特性と自分の特性をクロスさせ、有用なコンテンツを作っていくことを、現在の目標としている。コンテンツによって課題解決ができるようなコンテンツも手がけたい。
自分の価値を上げ、所属先の価値も上がる。そんな関係を目指している。