この前、祖父が硫黄島から還ってきた話
忙しくて書けてなかったのだけど、奇跡みたいなことが起きた話をしたい。
僕の祖父は高橋金蔵と言う。物静かな、造り酒屋の息子だった。彼は、20代前半で戦地である硫黄島に赴き、2万人近くの仲間とともに死んでいった。
金蔵からの手紙が残っていて、その手紙のほぼ全てに、まだ赤ちゃんの息子の章喜(あきよし。後の僕の父親)を思いやる言葉が並んでいた。
子どものことばかり心配している様子が伺える
所々に墨塗りのある「硫黄島からの手紙」
「もう2度と会えない」と別れの言葉を記す
「章喜はどうしているか心配しています」
「章喜のことが心配でならない」
「章喜に何か間違いでも起きたか至急返事をくれ」
自分が地獄のような(そして後に実際に地獄になる)最前線にいるにも関わらず、息子ばかりを心配する若い父親。
思わず微苦笑してしまう。
そんな彼が、どう亡くなったのか、僕ら遺族は分からない。遺骨も身の回りのものも、何も残っていない。何も戻ってきておらず、硫黄島に放っておかれたままだった。
【嘘みたいな本当の話】
4年前の11月のある日、アメリカの博物館から実家の父親に連絡があった。
「私はケンタッキー航空博物館の学芸員です。我々の博物館に、日の丸の寄せ書きがありました。これは米空軍第45攻撃飛行隊のパイロットである、ロバート・ムーアさんが、硫黄島の洞窟で見つけたものです。
ムーアさんはケンタッキー州グラスゴーの自宅に持ち帰り、2003年に亡くなるまで額に入れて飾っていました。彼が亡くなった後、ムーア夫人が我々の航空博物館に寄付してくれて、倉庫にしまわれました。
2009年にケンタッキー航空博物館のボランティアを始めた私ですが、2012年に倉庫の棚卸しをしました。そこで私は日の丸寄せ書きを、たまたま発見しました。
当初私は、この日の丸寄せ書きの意義や意味を全く理解していませんでした。
そこで、私はこの日の丸寄せ書きの歴史や、何が書かれているのかを訳してくれる人を探し始めました。
10年後の2019年、ある日本人女性が偶然博物館を訪れてくれました。私は彼女に「この日の丸に書かれた文字を訳してくれませんか?」と尋ねました。
彼女の名前はナカタユキさん。
ユキさんは、寄せ書きを訳してくれただけでなく、日の丸に記された兵士の名前を突き止めてくれたのです。
それが、キンゾー・タカハシだったのです。
そして、ユキさんはキンゾーの孫、あなたの子どものヒロキさんが、硫黄島を遺族として訪れたこと。それがマイニチ新聞に載っていたことをインターネットで探し出してくれました。
ヒロキさんは日本でも広く知られた子どもの支援をしている団体の創業者だということをユキさんが突き止め、その団体を経由すればあなたにアクセスができるのでは、と思ったのです」
と。
Aviation Musium of Kentucky 学芸員 Barnad Roke さんより
最年少遺族ということが珍しかったようで、たまたま毎日新聞に載せて頂く。それが後に奇跡に繋がるのはこの時は全く思っていなかった
僕は驚愕した。
金蔵は、
おじいちゃんは
戻ってきたのだ。
あんなに心配して、ずっと会いたがっていた息子のもとに、還ったのだ。
80年の時を越えて。
父、章喜と血のついた金蔵の日の丸
良かった・・・!
良かったね、おじいちゃん。
本当に、本当に。やっと。
おかえりなさい。
会えて、会えて嬉しいよ。
あの時の赤ちゃんは、もう老人になってしまったけれど、でもあなたを想う気持ちは、ちっとも変わってないよ。
今日は終戦記念日。
僕と父親に起きた、ちょっとした奇跡の話を、書き残してみた。
祖父と時代を超えて出会わせてくれた、バトンリレーを繋いでくれた日米の人々に、心から感謝を。
出生前の高橋金蔵(祖父)と小さい頃の父