私は京極夏彦さんの小説が好きだ。
特に『百鬼夜行シリーズ』。
まさか仕事上の失敗を振り返っている最中に、その登場人物たちによって、自分自身を理解することになるとは思わなかった。
少し前、私は仕事上のあるチーム活動で、周囲との関わり方を大きく誤った。
良い成果を出したい。
せっかくやるなら、目的に沿った活動にしたい。
数字を見て、改善できるところは改善したい。
そう考えて、分析し、提案し、改善案を出した。
しかし、それが次第に「求められている範囲」を越えていった。
チームの課題を見つけるたびに拾い、解決しようとする。
成果が出ない可能性が見えれば、先回りして指摘する。
提案が採用されなければ、「なぜ分からないのだろう」と考える。
気付けば私は、自分に与えられた役割だけではなく、チームそのものまで背負おうとしていた。
そして、うまくいかなくなった。
幸い、この出来事について社内外の方と振り返る機会をいただき、自分の関わり方を考え直すことができた。
これは、その失敗から始まった話。
第1章 「なぜ分からないのか」が、分からなかった
私が最初につまずいたのは、とても単純なことだった。
「なぜ、同じものを見ているのに分からないのだろう?」
数字を整理する。
傾向を可視化する。
目的とのズレを示す。
改善した場合の効果を説明する。
自分の中では、かなり筋道を立てているつもりだった。
だからこそ、それが伝わらないと、「説明が足りないのか」と考えて、さらに説明した。
それでも伝わらないと、「そもそも考える気がないのではないか」と感じるようになった。
ここが私の大きな間違い。
今振り返れば、相手の意欲を評価できるほど、私は相手の認知や事情を理解していなかった。
そして私は無意識に、見えているものは、相手にも同じように見えていると思っていた。
そんなことをAIと議論していたとき、不意に『姑獲鳥の夏』を思い出した。
関口君。
目の前にある、確かに見ている、なのに、認識できていない。
そこで初めて、「もしかすると、人には本当に“見えているのに見えていない”ことがあるのではないか」と思った。
同じ数字を見ても、
ある人には「傾向」が見える。
ある人には「仮説」が見える。
ある人には「ただ数字が並んでいる」ように見える。
ある人には、そもそもそこが重要な情報には見えない。
これは、真面目か不真面目かという話とは限らない。
同じ数字を見ても、置かれている立場や経験によって、そこから拾う情報は違う。
そこに対して、「なぜ見えないの?」と怒っていたところで仕方ない。
京極堂なら、たぶんこう言うだろう。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」
分からない人がいることを「不可解な現象」にしていたのは、むしろ私の方だったのかもしれない。
分からないのであれば、「なぜ分からない」と責めるのではなく、その人の世界では、これはどう見えているのか。
そこから考えればいい。
私にとっては、かなり大きな発見だった。
第2章 正論を出し続けた結果、自分でチームの余白を消していた
もう一つ気付いたことがある。
私は「提案している」つもりで、実際にはかなり強く答えを置いていた。
データを分析して、「この傾向があります」
原因を考えて、「おそらくここが課題です」
改善案を考えて、「だからこうした方がいいです」
ここまで一人で組み立てれば、確かに効率はいい。
でも、相手からすればどうだろう。
考える余白がほとんどない。
しかも私自身は、答えを提示しているだけのつもりでも、受け手からすると、
「ここまで考えて当然」「これが正解」
と言われているように感じることもあっただろう。
そして私は、提案が採用されないと落胆した。
これもおかしな話。
提案する人と、決定する人は違う。
私はいつの間にか、「提案する責任」と「決定する権限」を混同していたのだと思う。
そこで、自分の仕事の境界を考え直した。
今は、
提案はする。
決定は奪わない。
合意した責任は果たす。
付与されていない責任までは背負わない。
という考え方を大切にしている。
これは「冷たくなる」ということではない。
むしろ逆。
全部自分で背負わないことで、相手にも考える余白が生まれる。
自分の頭の中に答えがあっても、全部言わずに問いを残す。
「私はこう見えました。どう思いますか?」で止めてみる。
最近、この余白を残すこともコミュニケーション能力なのだと考えるようになった。
昔の私は、課題を見つければすぐ埋めようとしていた。
でも穴を全部埋めてしまったら、他の人は穴があったことすら知る由がない。
時には、手を出さない。
失敗しないよう先回りするのではなく、自分の担当範囲を越えた部分は委ねる。
これは私にとって、「何かをする」よりも難しい学習だった。
第3章 私は木場修でありたかったのに、京極堂になっていた
ここまで整理したところで、もう一つ面白い発見があった。
私は『百鬼夜行シリーズ』では、木場修という人物の生き方が好きだ。
理屈一辺倒ではない。
現場に行く。
自分の足で確かめる。
筋を通す。
不器用でも、人や出来事に真っすぐ向き合う。
私はたぶん、仕事でもそうありたかったのだと思う。
仲間と一緒に考えたい。
現場で汗をかきたい。
会社に必要なことなら動きたい。
困っている人がいるなら助けたい。
ところが、実際に私が仕事上の問題に遭遇すると、
「そもそもの目的は何か」「KPIは何か」「数字を見るとこの仮説が立つ」「役割分担が適切ではない」「この運用では改善サイクルが成立していない」
と、構造を分解し始める。
気付けば、気分と思考だけはすっかり京極堂寄り。
ここに気付いた瞬間、「ああ、だから苦しかったのか」と思った。
木場修のようにありたい自分と、京極堂のように考えてしまう自分。
私はこれまで、この二つを無意識に同時に成立させようとしていた。
「みんなで熱くやりたい」と思いながら、
冷静に構造を分析してしまう。
「一緒に考えたい」と思いながら、
先に現状から到達できる答えまで出してしまう。
「仲間として関わりたい」と思いながら、
問題点を見つけると容赦なく分析してしまう。
もちろん正しくないこともある。
それなのに、整理された仮説を「答え」に近いものとして提示してしまう癖があった。
そうすれば、自分も周囲も疲れて当然だ。
でもここで、どちらかを捨てる必要はないのではないかと気づいた。
私の価値観は、たぶん木場なのだと思う。
筋を通したい。
現場を大事にしたい。
必要なことから逃げたくない。
そして京極堂的な思考は、そのために使える道具ではないか。
構造を読み、数字を整理し、原因を考え、言語化する。
それ自体が目的なのではない。
木場が困ったときに、「中禅寺、これはどういうことだ」と呼べばいい。
そんな感じで、目的と手段を混同しないことを意識して、自分の中の二人を使い分ければいいのかもしれない。
第4章 人を「正す」のではなく、憑き物を落とせる人になりたい
今回の失敗を通じて、私は人との関わり方をかなり考え直した。
以前の私は、「正しいことを、正しく説明すれば伝わる」と思っていたところがある。
でも人間は、そんなに単純ではない。
同じ情報でも、経験によって見え方は違う。
立場によって重要度も違う。
感情によって受け取り方も変わる。
ならば、自分の正論をそのまま渡すのではなく、相手の世界の中で意味が成立する形まで翻訳する。
それが必要なのだと思う。
ここでも、私の中では京極堂につながる。
京極堂は怪異そのものを退治しているわけではない。
絡まった出来事を整理し、言葉を与え、「実際には何が起きていたのか」を、その人が理解できる形へ組み直していく。
いわゆる「憑き物落とし」。
仕事でも同じなのかもしれない。
「どうして分からないんだ」ではない。
「どうすれば、この人の世界で理解可能になるのだろう」と考える。
これは迎合することとも、自分の考えを薄めることとも違うのではないか。
自分の持っている情報の量や精度は落とさず、渡し方を変える。
その人自身が理解し、自分で選択できる形まで持っていく。
そして、選択したあとは任せる。
私には、まだかなり練習が必要だ。
少し前までの私は、課題を見つけたら飛び込んでいた。
正しいと思ったことを説明し、改善できると思えば手を出し、結果として、自分の責任ではないものまで背負っていた。
そして、うまくいかなくなった。
でも、その失敗がなければ、「自分は何を大切にしているのか」「なぜ周囲との間に摩擦が生まれるのか」「自分の強みを、どう使えば人を傷つけずに済むのか」を、
ここまで考えることもなかったと思う。
人に迷惑をかけた失敗なら、反省もしなければならない。
ただ、起きてしまったものまで無駄にする必要はないと思った。
分解して、考えて、次に使える形にして持って帰ればいい。
私は地質の仕事をしている。
現場では、地表に見えている現象と、掘り上げたコアという「点の情報」から、地下に広がる三次元構造で何が起きているのかを考える。
考えてみれば、人間関係も少し似ているのかもしれない。
見えている現象だけで判断せず、その下にどんな構造があるのかを考える。
そして最近ようやく、その対象の中に自分自身も含める必要があることを知った。
木場修のようにありたい、でも、必要なときには京極堂も呼ぶ。
そんな働き方ができるようになればいいと思っている。
もっとも、自分の憑き物については、まだ完全には落ちていないとも思うが。