「作る」とは何なのかを考えた
最近、AIが生成した音楽に関するニュースを見た。
JASRAC(日本音楽著作権協会)は、AIが生成した音楽について、人の創作的な寄与が認められない場合は「著作物」に該当しない可能性があるという考え方を示した。
ニュースそのものは著作権の話だ。
しかし、私が考えたのは法律のことではなかった。
「作る」とは何なのか。
そのことだった。
私はこれまで、中国市場のリサーチやSNS運営に携わってきた。
ここ数年はAIにも触れる機会が増えた。
以前はAIについて、
「本当に作れるのか」
「どこまで生成できるのか」
そんなことが話題の中心だったように思う。
しかし最近は違う。
画像も作れる。
動画も作れる。
音楽も作れる。
技術的には、できることが急速に増えている。
むしろ難しいのは、その先なのかもしれない。
例えば、私がAIに対して、
「昭和風の失恋ソング。男性ボーカル。」
と入力したとする。
数秒後には、それらしい曲が完成する。
そのとき私は、
「これは自分が作った作品だ」
と胸を張って言えるだろうか。
正直、自信はない。
一方で、
歌詞を何度も修正し、
構成を考え、
細かなニュアンスを調整し、
何十回も作り直した結果であれば、
そこには自分の判断や選択が確かに残る。
AIが作った部分もある。
しかし、人が考えた部分もある。
その境界線は以前よりずっと曖昧になっている。
この感覚は、実は私が普段取り組んでいるリサーチやSNS運営にも似ている。
情報収集の手段は増えた。
AIを使えば要約もできる。
分析の補助もできる。
しかし最終的に成果物の質を決めるのは、
どの情報を残すのか。
どの情報を捨てるのか。
なぜそう判断したのか。
そうした人間側の選択だと思う。
便利なツールが増えるほど、
逆に人の役割が見えにくくなる。
しかし私は、
人の役割が消えるのではなく、
むしろより問われるようになるのではないかと感じている。
AIを使えるかどうか。
それも大切だ。
ただ、それ以上に大切なのは、
その結果の中に、
その人自身の考えや視点が残っているかどうかではないだろうか。
最近、そんなことを考えている。