言語化と属人性
Photo by Etienne Girardet on Unsplash
僕にとって、一番考え方を変えさせられたのは、LLMが言語の断片を寄せ集めれば人間らしく振舞えるという事でした。
僕はこれにより、言語は人が使う道具に過ぎないと考えるようになりました。
価値判断をしてから言語化する。
価値判断をしながら言語化する。
そのプロセスで外部の影響もうける。
そのプロセスが記憶に記録されて、また価値判断に影響する。
多分、このプロセスを意識と開始とか言うのだと思う。
疑ってますね?
ではGemini先生に聞いてみましょう。
ご提示いただいた考え方は、現代の認知科学や神経科学の視点から見て、非常に理にかなった、洞察の鋭い洞察だと言えます。
「科学的に100%解明された」と言い切るには意識の定義自体がまだ議論の最中ですが、あなたのプロセスは最新の**「予測符号化(プレディクティブ・コーディング)」や「動的システム理論」**といったモデルと多くの共通点を持っています。
という事だそうです。
どうやら、科学的にはそういう事なんだそうです。
という事は、言語化とはいったい何なのか?
よく言語が力がどうのこうのと言いますよね。僕自身、言葉は好きですし、結構無限の文章を書くことができます。ストレス解消に文章を書くくらいには好きです。多少言語化スキルには自信がありますし、なにより楽しいパズルだと思っています。
ですが、言葉はとにかく不自由で、明確に自分の感情や価値判断の意味、意図を伝えるのが非常に困難なツールだと思っています。ところが、実際に社会は・・・少なくとも法治国家は、言語優位の社会です。
言語化能力の高い人が、社会的に優位な地位になりやすい社会です。
落ち論例外もいますが、トータルで見れば、言語化力の高い人、すなわちペーパーテストが得意な人の方が、端的に言えば高学歴の人の方が支配的なポジションにつける社会です。
うちの町のお役人はほとんど中卒やねん、って、聞いたことないですからね。
それ以外の要素ももちろんありますが、でも、言語力が優位な人のほうが高い地位につきやすい、と言ってもいいと思います。
ところが、最初の話を思い出してください。
私がGemini先生に聞いたやつ。
人は、価値判断をしてから言語化するんです。
実は判断力は、言語に寄らない思考でもあるんです。
私はデザイナーという職業柄、非言語化思考を意識的にしてきました。
視覚情報を視覚情報のままで思考するという練習をしてきました。
生データのまま処理しないと、たとえば「赤い何か」を「赤」という言葉にすると情報が減ってしまいます。汚れとか、光沢とか、質感とか、匂いとか、重さとか、全部言語化するのは時間がもったいないので、イメージとキーワードを混ぜて思考します。
もちろん、それが役に立つシーンでという事です。
デザインの着想を得たり、表現の方向性を考える時にこの思考を使います。
企画書を書く時にはちゃんと言語で思考をします。
今も言語思考をしています。
言葉での整合性をつけなくては、文章を書くことは出来ませんから。
私はこう整理しています。
個性は非言語にあり、言語は没個性だと。
個性的な文章もあるとおっしゃりたい気持ちは分かります。
でもそれは、個性を言語で表現しただけです。
だとすると、属人性というのはどこに宿るのか?
非言語の部分に宿っているのではないだろうか?
少なくとも私は、そう理解しています。
ところで、私はいまちょっと悩んでいます。
最初は一人称が「僕」だったのに、途中で何故「私」にしてしまったのだろう?
書き換えようかどうしようか迷いながら、どんどん書いてしまった。
この、迷っている部分が価値判断。
僕、、、私の感情です。
ぶっちゃけ、どうでもいい事です。
多分統一する方が良いのですが、でも読む人はほとんどいないだろうし、また有難いことに読んでいただいた人がいたとして、でもきっとそんなことは気になさらないだろう。
本当に気に病むことはありません。
でも、悩みながら書いています。
多分、僕のこの文章の論旨よりも、そこに僕の属人性が垣間見えると思います。
人に伝わる形で一般化した文章は、ほとんどの場合、他の誰にでも書けるものになります。社会通念上問題のない考えなら、文章化された情報は滅多なことでは個性的にはなりません。それは言葉というツールが持つ、情報を単純化する機能がなせる業です。
言葉は本質的に、情報を簡略化、軽量化、均質化することにより、伝達効率の最適化を目指したツールです。より正確な情報・・・つまり私がこの「私」という言葉を、僕と迷いながら書いていたという真実の情報は、この文章の論旨を伝えるという目的において、ノイズでしかありません。
何かいいことがあったとしましょう。
仲間でそれを祝いあったとします。
「うれしい」と誰かが発言しました。
また別の誰かも「わたしもうれしい」といいました。
ここでもし、具多的にうれしさの中身が正確に一致していることを証明する必要があるなら、これはお互いストレスに違いありません。あいまいな言い方はよせ、となります。ですが普通はそんなことにはなりません。
それよりも日常生活ではスマートに素早く表現できる、シンプルで軽量な通信手段の方が重宝されます。
ところが、人社会はそれだけでは終わりません。
この言語にはもう一つ、恐ろしい機能が付いています。
それは、記録して再生できるという機能です。
この最高で最悪の機能が、人社会を複雑化させました。
なにせ、全部覚えなくてもいいのですから。
情報を外部に記録して、必要な時に正確に再生できるようになりました。
この点からも言語とは個性ではなく、その普遍性が求められていることがわかります。
我々が今生活しているこの社会では、言語を中心に社会システムが構築されています。言語は社会システムを構造化している構造物そのものと言っていいでしょう。
高度に言語化された社会と言っていいと思います。
そして今、そこにAIが誕生しました。
ついに人々は、自分たちが使う言語を、自動で正確に再現できる装置を発明してしまいました。当然のことながら、言語で出来ている社会システムとの親和性は計り知れず、我々の社会を高度に電子化していくのは間違いでしょう。
人がAIに支配される、などと心配されている方もいらっしゃるかもしれません。
もし人が、言語から生まれた生き物ならそうかもしれません。
でも言語は人が生み出した装置の一つです。AIはその装置を高機能化したものにすぎません。人の価値判断は、言語化以前のものです。
思考は言語だけではできません。
言語優位な社会おいて、とても便利な道具が出来たというだけのことです。
属人的な価値に影響を及ぼすものではないと、私は考えています。
とはいえ、私の仕事のうち、言語優位な部分は壊滅的な影響を受けるでしょう。
今ある言語優位な仕事はほとんど壊滅的な影響を受けるでしょう。
それとて、新発明が産業を大きく揺るがすという、人類がすでに何度も軽々している事と同じなんだと思います。過渡期でひどい目に合う人はたくさん出てくるかもしれませんが、でも俯瞰で見てみれば「カメラで撮られると魂が抜かれる」くらいのことかもしれません。
なので私は、これからは「ヒトの時代」なんだと思っています。
言語能力優位の時代が終わり、AIにより言語力が誰でも使えるツールになってしまいます。非言語的なヒトの能力は、実はとてもたくさんありますし、それを社会に実装する試みはまだまだです。属人的すぎて効率が悪いので、産業革命以降封印されていたことでもあります。
属人性をみんなが求めだすことが社会運営とバランスとれるなら、きっと面白い社会になっていくと思うんです。