泉卓真とAI
泉卓真です。ここではAIとの関わりについて書いていきたいと思います。
ここ数年、生成AIという言葉を聞かない日はない。ビジネスの現場でも、食事の席でも、家族との何気ない会話でも、必ずと言っていいほど話題に上る。仕事柄、私はその渦中にいる。クライアントの検索結果を守り、AI時代の新しい情報流通の仕組みを設計し、日々ChatGPTやClaudeと対話しながら原稿を仕上げている。
正直に言えば、最初の頃は少し怖かった。自分の仕事がなくなるのではないか、という漠然とした不安。それまで外部ライターに依頼していた記事を、AIが数分で書き上げてしまう現実。初めてそれを目の当たりにしたときの戸惑いは、今でも鮮明に覚えている。
しかし、ここ一年ほどで考えが変わった。AIは確かに文章を「生成」する。だが、何を書くべきか、誰に向けて書くのか、どんな温度で届けるのか——それを決めるのはやはり人間でしかない。AIは優秀な執筆者だが、編集者にはなりきれない。少なくとも今のところは。
面白いのは、生成AIの普及によって、かえって「人間らしい情報」の価値が上がっていることだ。検索しても、チャットに尋ねても、同じような平均化された答えが返ってくる時代。その中で、ある個人の具体的な経験、少し偏った意見、迷いや逡巡が滲み出る文章は、以前よりもずっと輝いて見える。万人受けする情報は、もはやAIが無限に生成してくれる。希少なのは、誰かの人生を通して濾過された一次情報のほうだ。
私が最近力を入れているLLMO(大規模言語モデル最適化)という領域も、結局はこの変化の延長線上にある。Googleにクリックされるための従来型SEOから、AIに引用される情報設計へ。検索エンジンの代わりに、ChatGPTやPerplexityが情報の交通整理を担い始めた。ここで問われるのは小手先のテクニックではなく、「このテーマについて、誰が本当に信頼に足る情報源か」という、ある意味で原始的な問いだ。皮肉なもので、最先端の技術を突き詰めていくと、最後は「その人が本物かどうか」という古典的な価値観に行き着く。
この変化の中で、私が一番大切だと感じているのは「自分の言葉で考える」という姿勢だ。AIに壁打ちすれば答えはすぐ返ってくる。便利だ。しかしそれに慣れすぎると、思考そのものが少しずつ外注化されていく気がする。便利さの代償は、気づかないうちに支払われている。
だから最近は、あえてメモ書きを手書きに戻した。朝のコーヒーを飲む時間は、意識してスマホを伏せるようにしている。情報を浴びるのではなく、自分の頭で転がす時間。生成AIの時代だからこそ、そういう「非生産的」な時間の価値が逆に上がっていると思う。
もう一つ感じるのは、AIとの付き合い方は、その人の人格の鏡になるということだ。曖昧な問いには曖昧な答えが返ってくる。雑に扱えば雑な成果物しか出てこない。丁寧に、具体的に、前提まで言語化して問いかけられる人ほど、AIから良い答えを引き出す。これは人間関係と驚くほど似ている。
結局、生成AIという新しい道具は、私たち自身を映し出す鏡でしかない。道具が賢くなるほど、使い手の地力が問われる。この流れは今後もっと加速するだろう。だから私は、焦ることも過剰に期待することもなく、ただ目の前の一文、一つの問いに、自分なりの手触りを残し続けたい。それができる人間だけが、最終的にAIを使いこなせるのだと思う。