【中原優介】ホチキスの“最後の一発”に人生を重ねてしまった話
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ホチキスを使うとき、誰もが一度は経験すると思う。最後の一発でカチリと音がしたはずなのに、紙は留まらず、針が空回りしてしまう瞬間。ほんの小さな事務用品に過ぎないのに、あの空振りに私は不思議な感情を抱いてしまう。思わず「ここぞというときに限って」という気持ちが湧き、まるで自分の人生の縮図を見せつけられているように感じるのだ。
ホチキスの針は見えない場所に隠れている。残りがあと何本か正確にはわからない。だから使う側は「もうそろそろ切れそうだ」と気づきつつも、どこかで大丈夫だと信じて打ち続けてしまう。そのギリギリ感が、私たちが日常で直面する状況にそっくりではないか。余裕があると思って進んでいたプロジェクトが、ある日突然リソース不足に陥る。体力も、時間も、残りを正確に把握できないまま、走り続けていることが多い。
そして、最後の一発で失敗したときに私たちは気づく。ああ、もっと早く補充しておけばよかったのだと。準備不足を悔やみつつも、その悔しさが次への学びになる。ホチキスの針を補充するとき、私は小さなリセットの儀式をしている気分になる。カートリッジをスライドさせて新しい針を滑り込ませるその行為に、不思議と未来への再スタートの象徴を見出してしまう。
しかも面白いのは、ホチキスが紙を留める音の心地よさだ。カチンという音は単調でありながら、確かな安心を与えてくれる。紙がバラバラにならず一つにまとまる感覚は、仕事や人生における「形になる瞬間」と重なる。プロジェクトが走り出し、仲間と意見が噛み合い、目に見える成果が出る。その一連の流れを凝縮したような音が、机の上で毎日のように鳴っているのだ。
だから私は、あの最後の一発の空振りも悪くないと思うようになった。失敗からしか学べないことがあるし、その不完全さが次の準備を促す。針が切れたら補充すればいいし、人生も同じように、途中で立ち止まって補強し直せばいい。ホチキスに込められた小さなメッセージは、案外深い。日々の事務作業の中で、何気ない音や感触が私たちに人生の縮図を教えてくれるのだから、侮れない。
今では、最後の一発を外しても笑ってしまう。むしろ「ここからまた始まる」と考えるようになった。机の端に転がる小さな金属の針が、未来を留めるためのパートナーに見えてくるからだ。
 
 
