自分が「いる」仕事
Photo by Willian Justen de Vasconcellos on Unsplash
心が満たされるとは、どういう時だろう?
それは、自分の存在が認められる時だと思う。このこと以上に人の心を満たすものはないのではないか。
取るに足りない人間とみなされれば悔しいし、存在を認められない時には心が痛む。それは人にとって最も辛いことかもしれない。
調子よく相槌を打ってくるけどほとんど人の話を聴いていないような人や、手抜き仕事に覚える腹立たしさ、つまらなさは質の良し悪し以前にそこに相手が「いる」ことが感じられない不満足感からくるのではないかと思う。
個人的な印象としては、大きな企業や組織になるほど、自分の意見をあまり口にしない人が増える傾向が感じられる。アイデアを出し合うミーティングでも、「それは流行っているんですか」とか、「新聞で見ました」「前例がないので持ち帰り検討します」といった発言が多く、本人自身が今この瞬間に感じていることをあまり語ろうとしない。
隠れているつもりはないのかもしれないけれど、目の前にいるのに、そこにいる感じがしない。もしかしたら、自分でも自分がなにを考えているのか良く分からないのかもしれない。
役所の窓口のような場面で生じやすい、「そういう決まりなので」といった対応。丁寧できちんとしているけれど、誰が相手でも変わらないチェーン店の接客作法など。役割やルール、表面的なコミュニケーションの形式を盾にして、自分自身の実感や居所を明かさない人は関係性を冷やす。
プロジェクトのミーティングでこうした人の割合が高いと、焚き木に薪をくべる人は次第に減り、みんなただ、そこにいるだけ、ただ働いているだけ、時間をやり過ごしているだけ、といった空しさが漂い始める。その空気は「いる」のに「いない」、家は建っているけれど、人が住んでいない空き家のようである。
サービス業をはじめとする第三次産業は、雇用においてもGDPにおいても国内の7割を占めている。その現場では、たとえ演出に過ぎなくても「楽しく働いている」とか、「お客様の喜びは自分の喜びである」といった印象を与えることがプラス評価につながる。
肉体労働や頭脳労働から、感情労働に日本人の仕事がウェイトを移して、働く人の気持ちや感情表現までもが商品の一部として扱われ、売り買いされる度合いが強まっている。「顧客志向」といったスローガンひとつで、製造業をはじめとする第二次産業も同じ重力場に取り込まれる。
そしてそこに、接客マナーとかワンツーワン・マーケティングとか、印象を良くするための様々な工夫が施されるのだが、それらが重ねられれば重ねられるほど、私たちの心はしらけていくような気がする。
社会は私たち一人ひとりの仕事の累積でできている。周りを見渡せば、目に飛び込んでくるものは誰かが手がけた仕事で満ち溢れている。部屋の床や壁、聞こえてくる音楽や指先のペン、いま着ている服、腰を下ろしているベンチなど、誰かがそのあり様を思い描いて実際に形にしたものである。
つまり、この社会で生きることは24時間、365日、なんらかの形で人の仕事に触れ続けることだと思う。それら一つ一つを通じて私達は日々、無数の存在感ないし不在感と接している。「いる」とか「いない」とか。
その後者から受ける薄いダメージのような虚無感が折り重なって、諦めや無関心が広がり、私達の社会が次第に散漫で秩序を失ったものになっていくとしたら、これはきわめて深刻な問題ではなかろうか。
美味しそうなのに、食べても満たされないもの。立派に見えるけれど、どこかごまかされている感じがするもの。人はこうした正体不明で一致感の低いものに触れ続けると、心のどこかにあるスイッチがパチンとOFFになって、起きているけれど眠っているような散漫な印象を示し始めるように見える。
そしてその「こんなもんでいいでしょ」という感覚の中で行われた仕事は、同じ感覚を人にうつす。ある人間の「あり方」が仕事を通じて他の人にも伝播していく。
仕事の先には必ず人間がいる。あらゆる仕事は、直接的であれ、それを通じて人間に触れていく。環境問題は地球の自然環境をめぐる問題群を指す言葉であるが、これは人間という環境をめぐる、もう一つの環境問題ではないか。
手がけた仕事に対して、「面白い」とか「興味深い」ではなく、「ありがとう」という言葉が返されてくるとき、そこにこめられているものを大切に思いたい。これは人の「あり方」に向けて戻されている言葉だ。「有難い」とは、そのようにはありにくい、あまりないことだ、という感嘆を含むフィードバック。
人間は基本的に「いい仕事」をしたい生き物だと思う。給料や条件とかステイタスの話ではなく、他の人々に対して「いい影響を持ちたい」という欲求があると思う。
「いい影響」とは、その仕事に接した人間が「よりハッキリ存在するようになる」ことを指すのではないか。「より生きている感じになる」と言い換えてもいい。
心が眠っているような状態ではなく、人が「より生きている」ようになることを助ける働きが「いい仕事」なんじゃないか。
その眼差しで世界を眺めると、仕事という言葉をめぐる風景が変わり始める。真夜中の道路工事現場で交通整理をしていた、おじさんの礼儀正しさに思わず返礼してしまう時のこと。隅々まで手の入った庭へ足を踏み入れた瞬間の思わず背筋が伸びて、ハッとする気持ち。その感覚はその仕事を成している「存在」を目撃した自分の「存在」が身を整えた、小さな反応なのだと思う。
より生きている人の姿は、それを目にした人の存在感覚に働きかける。例えば、人の勇気を起動して突き動かしたのは、なによりも実際に勇気を出して行動した人の姿だ。
自分が「いる」仕事をすること。
それが、会社が働き甲斐のある会社に、人の集まりが関わり甲斐のある集まりに、今この瞬間が生き甲斐のある時間になる始まりなるのではないかと思う。