福岡出身の私は母方から祖父の家は武家の出身だよ。佐賀のお殿様の乳母にも上がった事もあるそうだ﹂と︑うろ 覚えに聞きながら生まれ育った︒十数年ほど前︑ふと母親に ﹁その武家という証拠はあるの?﹂と尋ねた︒すると﹁たい そうな系図がある︒この前も親戚が訪ねて来て︑調査資料を 送ってくれたよ﹂と︑﹃藤原姓平井系図﹄のコピーと調査資 料を送ってくれた︒ 届いた系図を見て︑驚愕した︒丹念に調査した親戚の資料 にも感銘を受けたが︑それよりも驚いたのは系図の﹁平井氏﹂ は︑藤原北家秀郷流を起源とし︑筑前︑豊前︑肥前︑壱岐︑ 対馬︑いわゆる﹁三前二島﹂の守護であった名門﹁武藤少弐 氏﹂の同族だったからだ︒ 武藤氏の由来は諸説あるが︑系図にも︑武蔵国戸塚を領し たことから武藤を名乗ったと書かれている︒九州に下向し︑ 官職名でもある太宰少弐から少弐氏と呼ばれたこの一族は︑ 鎌倉より派遣され代々太宰府を中心に広大な地域の統治を 行ってきた︒対モンゴル軍侵攻の日本軍最高司令官として輝 かしい武功を残す一方で︑国家の防衛という難しい局面で鎌 倉幕府と連携を取り︑防塁建設を指揮し親子で殉じた氏族で ある︒少弐氏は︑少弐︑大友︑島津で構成される九州の伝統 的三守護家であったが︑その大きな影響力や功績に反して歴 史的遺物が少ないためか︑あまり語られることも無いミステ リアスな一族でもある︒ すぐさまネットの情報能力をフルに使って調べた︒平井氏 現代のお家復興 1 現代のお家復興 —武藤少弐氏一門﹁平井氏﹂の系図を調べて— 東京都在住田中伊佐武 は︑少弐氏から分家した鍋島氏︑筑紫氏︑馬場氏︑朝日氏︑ 横岳氏︑千葉氏などと等しく支流︑分家であることが分かっ た︒もちろん︑その分家同士でも複雑な力学や上下関係が あった︒ 居城であった須古城︵佐賀県白石町︶は︑支城である杵島 城︑男島城を含めた難攻不落の城塞群であり︑龍造寺隆信に 接収された後はさらに大規模な城郭となって︑北部九州の首 都と化した︒兵の動員規模も相当数にのぼったという︒そし て︑この系図は地域やお家の歴史にとって︑とても価値のあ るものだと思うようになった︒ 皆さんは目の前に︑埋もれようとしている光り輝く歴史的 発見を手にしたとすればどうするだろう?多くの人が︑そ れを残し伝えたいと思うのではないだろうか?今は亡き︑ 調査資料を作った親戚もそう思っていたに違いない︒ 私は︑可能な限りで思いつく国立博物館や図書館︑古文書 館と連絡を取った︒ 少弐氏に関わりの深い太宰府市公文書館と︑平井氏が在城 していた白石町の協力を得て調査が進んだ︒地域の歴史に関 する大事な資料ということもあり︑詳しい系図に関する知見 や調査資料をご紹介賜り︑とても良くしていただいた︒これ と同時に︑系図にある﹁平井﹂から︑現在は姓が変わってし まっている本家の戸籍謄本を遡 さかのぼ れるだけ遡った︒系図との 一致をどうしても見つけたかったからだ︒ また︑現在の家紋は﹁木 もっ 瓜 こう ﹂であり︑ここでも系図にある ﹁寄掛目結﹂︵*系図右下参照︶とは異なっていた︒後に木瓜 紋は平井氏が属した﹁有馬氏﹂の家紋と同じだという事を知っ た 平 ︒ 井氏は龍造寺氏に4度の攻城戦を挑まれついに滅亡する ことになったが︑今も白石町の陽興寺に︑平井一族の墓また は慰霊塔とされている構造物が須古鍋島家御霊屋の北側にあ る︒標高的には須古鍋島家よりもなぜか上座に位置しており︑ これは滅亡した平井氏の怨念を恐れたためだといわれている︒ この平井氏系図は︑無双の勇将といわれた須古城主﹁平井経 治﹂の弟であり︑龍造寺信純の娘を娶 めと った﹁直秀﹂の家系の もので︑蓮池藩士として代々続いたことが分かった︒ ﹁直茂公譜﹂には︑直秀の一子が鍋島直茂公に召し抱えら れて平井神左衛門 じんざえもん と称したとされているが︑系図中︑平井経 房は仮名が同じ様に︑甚左衛門 じんさえもん と記載されていた︒また︑百 武氏と姻戚関係を結んでいた事も分かった︒江戸時代に入る と系図に登場する︑平井良辰の実兄は田原安右衛門であり︑ 忍者の仕事を務めた事が︑三重大学の山田雄司教授や佐賀戦 国研究会の深川直也氏らの調査により近年指摘されている︒ この他︑平井氏が幕末まで属した﹁蓮池藩﹂や︑昔居住した ﹁須古城﹂についてなど︑興味は途切れなかった︒ 2 自分の祖先が歴史書に登場する感覚は他に例えがたく︑祖 先の生き様や戦いについて興味を持ち沢山学ぶ事ができた︒ 現代の面白いところは︑ゲーム﹁信長の野望﹂といった作品 により︑武将レベルでご先祖様を追体験してプレイできる︒ 無論︑私は祖先をプレイヤーとして選択しプレイに熱狂した︒ ある日︑佐賀県立図書館の石橋道秀先生に︑平井氏につい ての調査をお願いし︑遠方より訪問し資料数点を見せていた だく手配を行った︒そして︑その資料中に見事︑本家の旧本 籍地と平井氏居住地が完全一致する発見があった︒鳥肌が立 つ思いだった︒これで現在から飛鳥時代までの歴史が繋 つな がっ たわけだ︒ 平井氏系図については︑高解像度写真を佐賀県立図書館に 送付し︑所蔵いただく運びとなった︒数年後︑本家の親族を 佐賀県立図書館に招待し︑平井氏系図が所蔵されているのを 実際にお見せする事もできた︒私は同席できなかったが︑ きっと親族は感銘を受けた事だろう︒先祖の姓や謎を解明し︑ めでたく系図は後世まで残るようになったわけだが︑これで 私のできることは全て終わったのか?そうではない︒情報 化社会である現代のお家復興は︑土地や財産で成すものでは 無く︑情報で成すべきものだからだ︒そして︑祖先のように 激しく散った武士の生き様を伝えていくことも︑使命だと感 じた︒ 現代の私は︑武士がたしなみとした文化を元に︑武道と伝 統芸能を融合した総合藝術﹁武楽 ぶがく ﹂を長年サポートしている︒ その代表源 みなもと 光士郎 こうしろう 氏は︑武楽の演武や公演︑講演・展示 や稽古を通して︑武士の美意識から死生観や精神性までを含 む﹁武の美﹂を世界へ伝えんと活動しており︑世界の要人を 前に演武し︑国際演劇賞を受賞するなど国内外で評価を受け ﹁信長の野望﹂の織田信長役としてフルオーケストラとの共 演も重ねるなど︑大きな成長を遂げている︒こうした武士道 との結びつきは︑運命的︑霊的︑どう捉えて良いか分からな いが︑十数世紀にも渡り武家として活躍した血の影響が少な からずあるのかもしれない︒ そして︑これからも武楽との関わりや記事編集などを通じ て︑後世にお家や武家の文化を伝えていくことに尽くしてい きたい
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