大切な人(2019読書体験記 応募作品)
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もうすぐ四年になるだろうか、ずいぶんと長く彼とは会っていない。高校を卒業してしばらくはLINEをすることはあったけど、彼は遠いどこかの大学に通い、対する私は親戚のツテで地元の小さな会社に就職し、そこで事務作業をやっている。互いにそこそこ忙しく、LINEのやり取りは一年もたたないうちに途絶えてしまった。
そんな彼のことをふと思い出したのは、昨日のことだった。
私はルーティーンのように会社に向かい、仕事をこなし、そして当たり前に帰路についた。少し早く仕事が終わったので、駅に併設された三階建ての小さな商業施設に入った。入口付近の和菓子屋と古ぼけたみやげ屋を見て「相変わらず年寄り向けのラインナップだな」などと思いながら、私はまっすぐに三階へ向かった。
最上階には閑静な書店だけがある。私はそこで本の表紙を眺めるのが好きだった。
絵が描いてあるもの、写真が載っているもの、題名が大きく印刷されたもの。ほかにも、雑誌のような派手なもの、参考書のような単色で重厚感があるもの、はたまた著者名とタイトルのみが記されたシンプルなもの。一口に「本の表紙」といっても、それらには様々な個性があって、まるで人々が集まった一つの小さな街のように温かく感じられるのだ。
いつものように本の表紙を眺めていると、ある名前が私の足を止めた。
「なあ、これ、読んでみ。」
「これって、教科書じゃん。」
「いいから。すげえ綺麗なんだよ、これ。」
「え?小説でしょ?」
「とにかく読んでみろって。マジで。」
「私はいいよ。部活とか忙しいし。」
彼は昔から文化的な少年だった。小学生の時、休み時間が始まると友達は外に走っていくのに、彼は一人で本を読んでいた。中学校では演劇部に入って、自分で台本を書いては私に自慢してきた。俺は作家になるんだ、とかも言っていた。そんな彼も高校に入って、現実を目の当たりにしたらしく、私の応援をよそに、普通に大学に行く、と言い出した。
高校に入ってからというものすっかりおとなしくなってしまっていた彼が、久しぶりに興奮した様子で私に見せてきたのが、国語の教科書に収録されたその小説だった。家に帰った私は、自分の教科書を開いた。題名である、『無用の人』という文字列を眺めるだけ眺めて、眠たくなって閉じた。
「読んだ?」
「ごめん、部活で疲れて寝ちゃった。」
次の日も、そのまた次の日も、彼は同じことを聞いてきて、私もまた同じことを返した。
結局その小説は授業で取り扱うこともなく、ただ月日が流れ、彼と私は卒業した。
書店で見つけた『原田マハ』という名前と私は正対した。なんだったかな、これ。私はその作者のことを思い出すべく、ひとまずその人の本を何冊か手に取った。全く知らない内容ばかりだった。しかし、最後に手に取った短編集、『あなたは、誰かの大切な人』の目次に『無用の人』を見つけ、私は何か重大な忘れ物を思い出したような気がして、迷わずその本を買い、家に帰った。
家では寝る間も惜しんでその本を読み続けた。
小説は不思議だ。ただの活字の集まりのくせに、その活字たちに心を動かされ、笑い、考え、涙する。ただの活字の集まりのくせに、その活字たちは色鮮やかに輝いてみえる。
その小説もまた、ただの活字の集まりのくせに、私にはとても、綺麗にみえた。たとえるなら、筆をのせる前のキャンバスのような、何も置いていない部屋のような、そんな色がした。しかしそれはただ白いというのではなく、暖かで色鮮やかで、それでいて無垢な色だった。『あなたは、誰かの大切な人』には六つの短編小説が収録されていた。『大切な人』について描かれたそれらの小説は、私の心を、そっと、抱きしめるように温めた。
私の大切な人って誰だろう。
考えるまでもなかった。私はカバンの中からスマートフォンを引っ張り出して、LINEのトーク履歴を全速力でスクロールした。
「久しぶり。やっと読めたよ、『無用の人』。」
何度も何度も推敲したのちに送信したその文章は、なんとも不格好なものになってしまった。感想くらい書けばよかった。そもそも彼はこの小説を私に勧めたことを覚えているのだろうか。というかこんな夜遅くにLINEして迷惑だったかな。
いろいろ考えていると、通知が鳴った。
「久しぶり。今度帰るから、感想聞かせて。」
彼の文章もまた不格好なものだった。それでもその文章は私にとって、どんな色よりも、絵よりも、物語よりも、温かいものだった。