「とにかくやり切る」で、本当にいいのだろうか
狙いを定めてやり切る
「やり切る力」は、ビジネスにおいて非常に評価されやすい能力です。
最後までやり切れば、たとえ結果が伴わなかったとしても「最後までよく頑張ったな」とプロセスを称賛されることがあります。
逆に途中で止まってしまうと、「あいつは根性がない」とレッテルを貼られてしまうこともあります。
だからこそ、「とにかく最後までやり切ること」は仕事をする上で絶対的な正義だと語られがちです。
以前、デジタルを活用したプロジェクトで「自分たちでプロダクトを作ろう」という話になったときのことです。
チームでアイデアを出しながら、どんなサービスが作れるかを議論する中で、私はある作業を任されました。
ただ、そのときどうしても拭えない違和感がありました。
「なんでこれをやるんだろう?」
その作業が、誰にとってどんな価値につながるのかがよく分からなかったのです。
むしろ私は、「手段を投じる前に、まずは顧客が何を求めているのか」を定義する必要があるのではないかと思っていました。
その懸念をメンバーに伝えてみました。
すると、こんな言葉が返ってきました。
「とにかくアウトプットすることが大事なんだ」
「まずは形にしてみようよ」
「その作業、とにかくお願いします」
努力していることは痛いほど分かる。
でも、その行動がどこを射抜こうとしているのかが見えない。
そんな感覚が残りました。
なぜ、こういうことが起きるのでしょう。
考えてみると、「動いていること」そのものが、私たちにある種の安心感を与えるのかもしれません。
何かをやっている。アウトプットを出している。
それだけで、前に進んでいる錯覚に陥ります。
そして実際、そういう「分かりやすい頑張り」は評価されやすいものです。
でも、目的が曖昧なままフルパワーで進めた仕事は、顧客に刺さらないばかりか、自分たち自身も迷子にさせてしまいます。
そんな状態で積み重ねた努力を、「よく頑張った」と評価することは、本当に称賛されるべきことなのでしょうか。
私たちは、どこに向かって「やり切って」いるんだろう?
やり切るにしても、どこにそのエネルギーを注ぎたいのだろう。
「頑張っている自分たち」に酔いしれたいのか。
それとも、「誰かの力になれている実感」を掴みたいのか。
弓矢を想像してみてください。
狙いを定めずに矢を放ち続けたら、どうなるでしょうか。
数打てば、いつかは的に当たるかもしれません。
でも、その確率は限りなく低い。
そして何より、その成功には「なぜ当たったのか」という再現性がありません。
弓を引き、狙いを定め、「ここだ」と確信した瞬間に矢を放つ。
そのときこそ、やり切る力は真の価値を持つのだと思います。
では、「狙いを定める」とは、具体的に何をすることなのでしょうか。
私の場合はまず、たった一人の誰かを徹底的に想像することだと思っています。
このサービスを使う人は、どんな状況で、どんな顔をしているのか。
その人は、これを使って本当に喜ぶのか。
それとも、日常は何も変わらないのか。
その人の状況が、少しでも良い方向に変わる瞬間を具体的に想像してみる。
そうやって思考を深めていくと、自分たちの行動が
意味のある一手なのか、それともただの気休めの運動なのか
が見えてきます。
狙いが見えたとき、初めて「やり切る力」は爆発的な意味を持ちます。
狙いを定めて、やり切る。
私たちの限られたエネルギーを、どこに向かって解き放つか。
それこそが、仕事の質を、そして自分たちの誇りを決めるのだと信じています。