先入観なしでいろんなものに触れて、やってみてどうか? を繰り返し試してきたに過ぎない
この頃(DDI DION)の頃からインターネットって細々と長くお付き合いしているけど、だからって「俺TSUEEEE!」みたいなアピールはしないし、むしろ未だに「このネットワークは何と何で出来ているんだろう?」とか「このコンピュータの振る舞いって正常?」とか「このプログラムや式はどうやって書くんだろう?」みたいな、素朴で研究熱心な好奇心がただ働いているだけ。他人にマウントを取りたいとか、そういう欲求も余りない。
長くやって来ている割には、先入観なしでいろんなものに触れて、やってみてどうか? を繰り返し試してきたに過ぎないと、自分自身そう思っている。素朴に、むしろ淡々とやって来て、どうにかこうにか、まだエンジニアでいられる。低い山、低い頂に登れた、というだけで「俺は頂上に着いた!」って自慢話はしない方だ。そういうことは、あまり吹聴しない方だ。
なので、最近になって、チャッピー(ChatGPT)だけをマスターしたに過ぎない人が、早速「AIの先生をしています」みたいな、そういう臭いプンプンの紹介文(Xプロフィール欄)に、臆面もなく書いているのを見ながら、口には出さないものの、実は内心、とてもムカッとしています。
1980年代当時、コンピュータを学び始めた頃の「人工知能」って、まだ推論モデルが確立する以前のことなので、僕自身「これは二分木ですか? 二分探索木(バイナリーツリー)ですか? って生成AI自身に訊いたら全然違っていて「今では、確率・統計で出来ています。それを推論モデルと言います」って言われて「ああ! また一つ賢くなった!」って純粋に今でも喜んでいます。
我々エンジニアは、そういったソフトウェア/ハードウェアの挙動のことを「振る舞い」って呼ぶ場合があり「おい、コイツ振る舞いおかしいぞ?」っていう「嗅覚」を磨き上げろ、誰に言われるわけでもなく、そういう「振る舞いを理解しろ!」という教育で育った世代なんですよ。
なので、1980年代に親父から「憲雄、これからはコンピュータの時代だ!」と言われて育ったし、学校の先生の中には「横尾! コンピュータを学ぶということは! そんな生半可な態度ではダメなんだ!」と説教されて育った世代。おだてられて育った世代じゃないんですね? だから、お二方が亡くなった今でも、コンピュータの進化に謙虚についていこう、全部わかった気でいちゃいけない、と思うようになったんです。