仕事をしていると、
「これ、誰もやっていないな。」
「ここ、止まっているな。」
「このままだと困る人が出そうだな。」
と気づくことがあります。
私は、こういうことに気づきやすい方です。
全体を見ていると、仕事の抜けや詰まりが見えてしまいます。
そして、見えてしまうと気になります。
だから以前は、
「じゃあ私がやっておこう。」
と、そのまま巻き取ってしまうことがよくありました。
でも最近は、
気づいたことと、自分がやることは別
だと意識するようになりました。
気づける人ほど、仕事が集まりやすい
組織には、
気づく人と、気づかない人がいます。
誰かへの確認が止まっている。
返信が返ってきていない。
期限が近い。
誰も担当していない。
このままだと次の工程が止まる。
こうしたことに気づくと、
「誰かがやらないと。」
と思います。
そして、その「誰か」が毎回自分になる。
最初は善意です。
少し確認するだけ。
一件だけ連絡する。
ついでに資料も作る。
でも、それを繰り返していると、
いつの間にか、
本来誰の仕事だったのか分からなくなります。
一度やると、「その人の仕事」になりやすい
組織では、
誰かが一度やった仕事が、そのままその人の担当になることがあります。
「前もやってくれたから。」
「この人が詳しいから。」
「頼めば早いから。」
そうして、
善意で一度巻き取った仕事が、
二回目には依頼され、
三回目には当然のように回ってくる。
でも、
できることと、担当することは別です。
助けられることと、
責任を持つことも別です。
ここを曖昧にすると、
気づく人、仕事が早い人、断らない人へ仕事が集中していきます。
「私がやった方が早い」は危険です
私自身、
「これ、私がやった方が早いな。」
と思うことがあります。
実際、その方が早いこともあります。
でも、
早いからやる。
分かるからやる。
止まっているからやる。
を続けていると、
その仕事を本来持つ人が、持たなくなります。
しかも周囲からは、
「回っている」
ように見えます。
問題が見えなくなるのです。
本当は、
担当が曖昧。
管理者が確認していない。
役割が抜けている。
判断者が決まっていない。
という構造の問題があるのに、
誰か一人の善意で埋められてしまう。
これは、長く続きません。
気づいたら、まず「誰の仕事か」を見る
最近は、何かに気づいたら、
すぐ自分でやる前に、
一度止まるようにしています。
これは誰の担当なのか。
誰が管理する仕事なのか。
誰が判断するのか。
私がやるべきなのか。
それとも、
「ここ止まっていますよ。」
と伝えるところまでなのか。
必要なら、
「次は〇〇さんの対応待ちです。」
「このままだと〇日までに間に合わない可能性があります。」
「担当が決まっていないので、誰が持つか決めた方がよいと思います。」
と伝える。
問題を見つけることと、自分で全部処理することは同じではありません。
助けることは、悪いことではありません
もちろん、
手が空いている。
緊急性が高い。
一時的にフォローが必要。
そんなときに助けることはあります。
でも、その場合も、
「今回は私が対応する」
と、
「今後も私が担当する」
は分けて考えたいと思っています。
例えば、
「今回は私が対応しますが、今後の担当は決めておきましょう。」
「今回だけこちらで巻き取ります。」
と、境界を言葉にしておく。
善意そのものが問題なのではありません。
善意が役割にすり替わることが問題です。
仕事を巻き取る前に、構造を見る
誰もやっていない。
仕事が止まっている。
抜けている。
そんな場面を見ると、
その仕事そのものを片づけたくなります。
でも本当に見るべきなのは、
なぜ誰もやっていないのか。
担当が決まっていないのか。
管理者が把握していないのか。
情報が届いていないのか。
そもそも不要な仕事なのか。
ということです。
目の前の仕事を一件片づけても、
原因が残っていれば、また同じことが起きます。
だから私は、
仕事を拾う前に、仕事が落ちている理由を見る
ようにしています。
善意で回る組織をつくらない
気づいた人がやる。
できる人がやる。
断らない人がやる。
それで一時的に仕事は回ります。
でも、
その状態が続けば、
気づく人だけが疲れます。
そして、その人がいなくなった瞬間に仕事が止まります。
だから、
誰が持つのか。
誰が管理するのか。
どこまでが担当なのか。
を決める。
必要なら助ける。
でも、助けたことをそのまま担当にしない。
私は最近、
善意で仕事を巻き取りすぎないこと
をかなり意識しています。
気づいたら、すぐやるのではなく、
一度ブレーキを踏む。
これは私の仕事なのか。
私がやることで、本来の役割が曖昧にならないか。
今だけ助けるのか。
今後も持つのか。
そこを考える。
気づけることは強みです。
でも、気づいた仕事を全部自分の仕事にする必要はありません。
助けることと、
抱えることは違う。
善意と、
責任範囲も違う。
そして、もうひとつ。
私自身が気をつけたいことがあります。
善意で巻き取った仕事を手放すとき
善意で仕事を巻き取っていると、その仕事に思った以上に愛着が湧くことがあります。
自分なりに工夫した。
時間をかけた。
トラブルが起きないように整えた。
誰にも言われなくても続けてきた。
だから、
「もうそれはやらなくて大丈夫です。」
と言われると、少し寂しく感じることがあります。
私自身、これは気をつけたいところです。
でも、その仕事を誰かから正式に任されたわけではなく、
「必要だと思ったから。」
「誰もやっていなかったから。」
「自分がやった方が早かったから。」
という理由で自分から巻き取ったのであれば、
その仕事を引き受けたのは、自分自身です。
だから、あとから手放すことになったときに感じる喪失感まで、相手の責任にすることはできません。
「こんなにやったのに。」
と思う気持ちはあっても、
そもそも、
そこまでやると決めたのは誰だったのか。
を一度考える必要があります。
善意で始めた仕事ほど、
「自分がやって当然」
と無意識に役割化しやすい。
そして、その役割がなくなったときに、
「自分を否定された」
ように感じてしまうことがあります。
でも、
仕事がなくなることと、自分の価値がなくなることは別です。
役割は変わります。
必要な仕事も変わります。
組織の優先順位も変わります。
だからこそ私は最近、
善意で何かを巻き取る前に、
「これは本当に私が持つ仕事なのか。」
を考えるようにしています。
必要だと思って、自分で始めた。
誰かのためになると思って、自分で続けた。
それ自体が悪いわけではありません。
ただ、正式に任された仕事ではないのであれば、
いつか「もうやらなくていい」と言われる可能性もあります。
そのときに、
「こんなに頑張ったのに。」
「必要とされていなかったのか。」
と相手を責めるのは違うと思っています。
自分の判断で巻き取った仕事なら、巻き取ったことの責任も自分にある。
そして、必要がなくなったのなら、手放す。
自分で始めた仕事だからこそ、
始める責任だけでなく、手放す責任も自分にある。
善意で助けることはできます。
でも、その仕事を自分の役割にするかどうかは別です。
気づいたからやる。
できるからやる。
必要そうだからやる。
その前に、
「これは本当に自分が持つべき仕事なのか。」
を一度考える。
善意をなくすのではなく、
善意と責任範囲を混ぜない。
私自身、これまで「気づいた仕事をそのまま持つ」ことで、
結果的に属人化をつくってしまった経験があります。
だからこそ、これからは善意で巻き取る前に、
役割と責任範囲を確認したいと思っています。