なぜ私は「アニメ×地域創生」に本気なのか。「好き」を社会を動かす「仕掛け」に変える面白さ
私がこの世界に強く惹かれるようになった原体験は、中学生の頃に遡ります。当時夢中だったアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の聖地が、学校から歩いて行ける距離にあると知り、友人たちと胸を躍らせながら向かいました。
そこで私が見たのは、単なるアニメの舞台ではありませんでした。聖地を訪れるファンたちは、生徒たちの邪魔にならないよう静かに配慮し、写真を撮る際には丁寧に許可を求めていました。当時の「オタク」という言葉には、どこか閉鎖的でネガティブなイメージがつきまとっていたように思います。
しかし、目の前にあったのは、作品への愛を持つファンと、それを受け入れる学校側とが自然に築き上げた、温かく心地よい「共存」の風景でした。 この時感じた「好き」という熱量が、誰かを傷つけるのではなく、むしろ良い関係性を生み出す力になるという事実は、中学生の私にとって静かな感動でした。
しかし、一歩社会に目を向けると、その「好き」という熱量が、必ずしも温かく受け入れられるわけではない現実がありました。献血を呼びかけるポスターにキャラクターが起用されれば、「不謹慎だ」と批判の声が上がる。ひとたび事件が起きれば、容疑者の部屋にあったアニメグッズが「異常性」の象徴であるかのように報道される。私の周りにいた友人たちは、鉄道、アイドル、アニメと、それぞれの「好き」に誇りを持ち、ルールを守りながらその熱中する姿は輝いて見えました。 ただ純粋に、周りに迷惑をかけずに楽しんでいるだけなのに。なぜ、この熱量と社会との間には、時に冷たい溝が生まれてしまうのだろう?その違和感は、ずっと私の中に残り続けました。
この違和感の正体、そして好きという熱量が持つポテンシャルを活かしきれていないもったいなさの正体を探るうちに、私は「アニメ×地域創生」というテーマに深く惹かれていきました。
先日、ある地方のふるさと納税をPRするVTuberの広告が目に留まりました。好きなカルチャーが地域貢献に繋がる、素晴らしい取り組みです。しかし、彼女はその土地と深い繋がりがあるわけではなく、あくまでPRのための「外注タレント」という立ち位置に見えました。もっと良い「仕掛け」があるのではないか。例えば、彼女が生産者の方と対話するとか、地元VTuberとコラボしてより文化を知ってもらうとか。その方が、より深い熱量が伝わるはずです。
この感覚は、旅先の温泉地で『温泉むすめ』のグッズを購入した時にも感じました。店員さんは親切に「観光協会にサインパネルがありますよ」と教えてくれましたが、その観光案内所の方からは「知っている人は少ないから…」と、少し寂しそうな言葉が返ってきたのです。 ファンに愛され、成功している地域がある一方で、ポテンシャルを活かしきれていない場所もある。この「差」は一体どこから生まれるのでしょうか。
その分水嶺の鍵は、私は共創にあると考えています。
バラバラのピースが一つに組み合わさっていき一つのものが生まれる
『ガールズ&パンツァー』の茨城県大洗町や、『ラブライブ!サンシャイン!!』の静岡県沼津市のように、ただ舞台になっただけでなく、ファンと地域が一体となって町を盛り上げるムーブメントを創り出した成功事例があります。一方で、ファンと住民の間にすれ違いが生まれ、企画が上手くいかなかったケースも見られます。その違いは、地域側がファンを一過性の「お金」として見るのではなく、共に価値を創るパートナーとして迎え入れ、丁寧なコミュニケーションを設計できたかどうかにあります。
その希望の光として、近年『ウマ娘 プリティーダービー』の「ホッコータルマエ」の事例が挙げられます。これは、単にキャラクターを地域に当てはめたのではなく、その土地に元々存在したモデル馬の物語を丁寧に「継承」しました。だからこそ、そこには作られたタイアップではない本物の熱意が生まれ、ファンと地域住民が互いの価値を認め合う、継続的な共創モデルとなったのです。
だから私は、もうただ好きなものを追いかけるだけのファンでいることをやめたいのです。素晴らしい作品やキャラクターたちが、どれほどの労力と愛情を込めて生み出されているかを知ったからこそ、この好きという熱量を、社会とを繋ぐポジティブな力に変えたい。
ファンと地域が一体となる共創の物語。その熱狂の渦の中心で声を上げるのではなく、その物語を言葉で紡ぎ、分析し、まだ見ぬ誰かへ届けるライターとして。あるいは、プロジェクトを円滑に進める裏方として、その「仕掛け」全体を支えていく。それが、今の私の決意です。