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なぜG's ACADEMYに入学したのか

香川県高松市に生まれ育ち、地元の学習塾兼予備校で講師を務め退職、2020年4月に福岡へ。エンジニア養成学校「G's ACADEMY」(以下G's)に入学、プログラミングを学習し始めて2ヶ月が経ちました(2020年6月19日執筆)。33歳独身男性、ハンカチ世代であります。


ジーズアカデミー福岡(天神)|起業家・エンジニア養成学校(プログラミング)
特徴 日本一のスタートアップシティ福岡。高い創業率と独立の気質はセカイを変えるスタートアップを生み出す可能性に溢れています。そんな熱量に惹かれ、ジーズアカデミーは国内2番目の拠点に福岡を選びました。地方都市から世界的な起 [...]
https://gsacademy.tokyo/fukuoka/


日々プログラミングを学習する中で、今一度「人生の棚卸し」を行います。そのうえで、僕がなぜ福岡に来てG'sに入学したのかを、強烈に残る記憶とともに書いていきます。長文ですが最後まで読んでいただけると幸いです。

【whom】

・僕のことを知っている人

・自分が「何者」なのか悩んでいる人

・プログラミングを勉強してみたい人

・G'sに興味がある人

・G's関係者

①【仮の結論】

なぜG'sに入学したのか?

・「外の世界が知りたかったから」

・「自立したかったから」

・「本気でセカイを変えたい人たちに出会いたかったから」

上記3点を、G's入学前の仮の結論としておきます。

②【幼少期〜就職前】

思えば、僕の家は母子家庭で決して裕福ではなかったように思う。自分に父親が居ないことがコンプレックスで、とにかく父親が居ないことを隠したがった。

周りと比較するのは良くないが、当時は母子家庭が今ほどありふれたものではなかった。香川県高松市の中でも教育熱が高い地域とあってか、仲が良い友達は両親がそろい裕福な家庭ばかりだったように記憶している。

※先に言っておきますが、ここで自分の境遇がいかに悪いのかをアピールしたいわけでも、同情してほしいわけでもありません。本当は隠したいです。

母は文字通り朝から晩まで働いており、夜は姉と2人で夕飯を済ませることが日常だった。母は深夜に働きに出ることもあった。のちにそれはいわゆる水商売であることを知った。僕が幼い頃から大学生くらいの時まで、父親ではない男性が何人か家を出入りしていた。外食や旅行に連れて行ってくれたり誕生日プレゼントをくれたりした。父親がわりの人、と認識していた。今思えば、スポンサーの男を捕まえるなんて母は上手くやっていたなと思う。やり手の女だ。笑

その甲斐あってか、豪華ではないが食事に困ることはなく、塾や習字教室、ミニバスなどの習い事に通わせてもらうことができた。母がアパレル関係で働いていたこともあり、気づけばファッションに敏感で、よく洋服を買いに出かけた。普段は節約節約の母だったが、好きな洋服だけはいつも奮発して買ってくれた。高松市の中でも人気のスポットにある分譲マンションを現金一括で購入し、通学や遊びには全く困らない環境を用意してくれた。本当に母はやり手の女だ。笑

今でこそ母の偉大さを痛感するのだが、思春期の僕は経済的に裕福ではない境遇を恨み、よく母にキツく当たっていた。特に衝突したのは、大学受験期である。周りは関西や関東の都市圏に進学するという人が多い中、母にはお願いだから地元の国立大学に進学してほしいと頼まれた。高校の時、全く勉強しなかった僕は、無事浪人した身分のくせに、県外に行かせてくれない母を責め続けた。今思えば死ぬ気でアルバイトしてでも県外に行けばよかったのだが、そんな発想もなく他力本願だった。結果、泣いて懇願する母に心が折れ、地元の大学に進学した。

学部は法学部、当時好きだった「行列のできる法律相談所」の影響もあり、法律に興味があったからだ。大学入学後は、いわゆる文系大学生で、「安定している」という理由だけで公務員試験の勉強を大学3年から始めたものの、県庁や市役所の仕事の性質を知るうちに「自分の性格にまるで合っていない」と思い、勉強もやめた。バスケと酒で頭がいっぱいの、しょうもない大学生だった。自分が高校の時に通っていた塾にアルバイトで雇ってもらえて、唯一そこでは頑張っていたように思う。

そんな大学生活を送っていたのだが、一方で母は体調が悪い状態が続き、結核の恐れがあるため入院した。しかし母の病名は「肺ガン」だった。肺胞にまで広がり、手の施しようがなかった。闘病生活を経て、僕が大学3年の秋に母は亡くなった。50歳だった。

母が亡くなるまで、看病はほとんど姉が率先してやってくれた。僕は大学やアルバイトを言い訳に、合間で病院に行くだけだった。今思えば現実逃避だったのだろう。泣く泣く地元の大学に進学したのに、大学生活まで母に影響されるなんてふざけんなよ、と思うこともあった。そんな状況でもなお、自分の境遇を呪うだけだった。

※この経験があったからこそ、今でも姉には頭が上がりません。本当に感謝しています。

僕が唯一頑張れていたのは、前述した塾のアルバイト。本当に好きなようにやらせてもらえたのが大きかった。自分で教材を選定し、その子に合った教え方で教えることにやりがいを感じていた。塾で僕の面倒を見てくれていたのが、後述する僕の恩師であり師匠でもある「H先生」であった。母は生前、このH先生に「息子のことをよろしくお願いします」と連絡を入れていたと後で知った。

周りは就職活動真っ只中、当時はまだ大手企業・安定信仰が残っており、とにかく大手企業か公務員、そんな人たちがほとんどだった。僕はなぜかそんな現実に冷めており(ただの社会不適合者)、ろくに就活もせずに、アルバイトしていた塾に就職させてほしいとお願いし、採用が決まった。ギリギリ4年で大学を卒業、僕の社会人生活がスタートした。

※ここまで読んだ方は「なんだこのメンヘラ甘えたれクソ野郎」と思うかもしれません。甘えたれの部分は間違っていませんが、基本的には陽キャで外向的な楽観主義者、友達にも恵まれ仲間と一緒にワイワイ過ごすことが好きな男です。

③【就職後〜G's入学前】

僕が地元の学習塾に就職した理由は、塾の方針、H先生の熱意、自由な風土、この3つだと思う。いわゆる一般的な学習塾と違い、一人一人のバックボーンに合わせた対応をしてくれ、勉強以外のこともたくさん教えてくれる場所だった。大手ではない小規模の学習塾だったため、いろいろと改善点はあったのだが、逆に言えば自分の理想の場所を作れるわけで、そこが自分の原動力だったのは間違いない。

そこでは「学問的な知識量」「指導力」「人を惹きつける力」において常に不安と戦いながら、4年ほど勤めた。プライベートでは、初めて一人暮らしをし、初めて自分のお金で車を買い、大学時代にやりたかった「独り立ち」というものを経験することができた。いたって普通のことかもしれないけれど、自分にとっては本当に嬉しい出来事だった。

一方で「本当に自分は教育がしたいのか」を考えるようになり、転職活動を開始。上杉大先輩のコネのおかげで東京での最終面接をクリア、某大手IT企業の営業職に内定をいただけた(ちなみに上杉さんは僕の意思決定に影響を与えくれる人生の先輩。常に挑戦し続けている男)。時を同じくしてH先生が学習塾兼予備校を独立開業、0から作り上げる姿を見て、心が揺らぐ。死ぬほど悩み抜いた結果、他業種と比較して自分のやりたいことを再認識、内定を辞退した上で、H先生のもとでスタートアップをお手伝いさせてくださいとお願いした。


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そして2016年の12月、第2の講師人生がスタートした。そこでは教材も自分で作成、講義計画や年間スケジュール、運営に関わることは何でもやった。えげつないほどのタスクをH先生がこなしているのを見て、自分は率先して運営を担当するようになり、能動性はそこで養われたように思う。

※実際はキャパオーバーでミス連発、メモを取ることの重要性を再認識。

まさに自転車操業の毎日、その日の講義が終わり生徒が帰った23:00からが勝負。まずはH先生と2人で腹ごしらえ、そこから早朝まで翌日の準備を行った。予備校を兼ねていたので、朝は10:00から講義がスタート、そんな日々を送っていた。

※自分の講義中、睡眠不足で喋りながら意識が飛んだのはいい思い出。

体力的にはキツかったが、ちゃんと日曜には休みを取れていたし、何よりも毎日が楽しかった。確実に自分がメインの歯車になっている実感があったからだ。業務の一つに、自社HPの作成、があった。アウトソーシングする余裕は無い、よし作ろう。便利な世の中で、素人でもHPを作れるサービスがたくさんある。その中の一つを選び、手前味噌であれこれいじりながらHPの原型を作れたのは嬉しかった。

僕の恩師であり師匠でもあるH先生は、本当におびただしい数のマルチタスクを実践していた。僕が見えていないだけで実際にはもっとたくさんあっただろう。その有能なH先生と比べてしまい自分を卑下することがずっと続いていた。それではいつまで経っても自立できないと考えた僕は、自分をもっと売り出すことにシフトチェンジした。理想の自分には程遠いけど、慕ってくれる生徒は少しづつ増え、正社員やアルバイトの子たちと良い関係を築けるようになっていった。創業から2年経った頃、気付けば生徒数は150名に達していた。

自分の生活に精神的な余裕ができ、プライベートで所属しているバスケの社会人クラブチームにおいても、良い仲間を作ることができていった。当初は平均年齢が低く、ポテンシャルはあるのに噛み合わず、負け続ける弱小チームだった。自分がチームの代表を務めるようになってからは、とにかくコミュニケーションを取り、具体的な対策を練習で実践しながら、チームを作り上げていった。その結果、まだまだ弱小だけれども少しずつ勝てるようになった。

チームは本当に仲が良く、飲み会やキャンプなどを積極的にやった。僕は後輩に気を遣われるのが本当に嫌なので、本音が言える空気づくりを心がけた。ただのバスケチームの枠を越え、仕事や恋愛、趣味の相談もお互いができる関係にあった。僕の知らないところで、若手がチームメンバーに仕事の相談をし、実際に転職まで実現しているのを聞き、なんて素敵な集団なんだと誇らしくなったのを覚えている。



こうやって振り返ると、本当にここ3年は仕事もプライベートも充実していたように感じる。自分らしい人生を送れている。ただ、本当にこのままで良いのか、というしこりは常にあった。そのしこりの正体は「この狭い世界だけで自分の人生が完結してしまっていいのか」というものだった。大学進学で叶わなかった外の世界への渇望は、ずっと心の中にあったのである。

2019年4月、転機が訪れた。自社の事業の一環として、「スタディースペース兼コワーキングスペース」と「プログラミングスクール」を開校したことである。学生・社会人関係なく利用できるこのサービスは、H先生が以前より準備してきた事業だった。このうち「プログラミングスクール」の方は、僕自身は運営に関与していないものだったのだが、香川からIT人材を生み出すというコンセプトには感銘を受けていて、プログラミングを通じたモノづくりに関心をもつようになっていった。

10月下旬、そのコミュニティの良さに惹かれ、G's ACADENY FUKUOKAの個別説明会を受けに来福。さらに卒業制作の発表が行われる「G's HUB DAY」のイベントがあるとのことで、一般参加。そこには、たった3ヶ月で作られたプロダクトを自信たっぷりにプレゼンする登壇者の姿があった。

他にもプログラミングスクールを調べカウンセリングを受けたのだが、どうもビジネスの匂いがぷんぷんし、何よりワクワクしなかった。ここまでの記述で分かると思うが、僕はコミュニティの雰囲気を重視する人間である。G'sは自走力がないと厳しいとの評判があったが、未経験でキャリアチェンジするんだったらそれ相応の環境は必要だろうと思い、G'sの受験を即決した。

それからG'sの入学に至るまで、最後まで仕事をやり遂げることと、自分のバスケチームと関わること、この2つを目標に据えた。結果、不甲斐ない部分もあり迷惑をかけることもあったが、4月1日に引越しを済ませ、入学に備えて準備を進めた。

④【G's入学後〜】

世間はコロナ一色。4月の間はずっと外出できず、家とスーパーの往復が続く。4月中旬、ネット環境がようやく整い、まずは「progate」から始める。「へー、HTMLとCSSってこんな感じなんだ」、あまりワクワクしないままJavaScriptに突入。「これがプログラミングってやつかー」そのくらいの感想だった。

4月下旬、オンラインでのG's入学式。「やっとみんなと話ができる…」そのことが嬉しくてしょうがなかった。画面ごしでの会話、みんな緊張している。オンラインでの講義が始まり、ようやくプログラミングの楽しさを覚える。

5月中旬にオフライン講義が解禁。僕が所属するLABコースという全日制クラスの仲間たちは、漏れなく良い人たちで熱い思いを持っている。やっぱりG'sを選んで良かったと思った。

プログラミングについては、講義についていくので必死だ。僕は頭の回転が速い方ではないので、理解に時間がかかる。これまで演繹的に学ぶことを第一に考えてきたため、帰納的に学ぶのはなかなか受け入れ難いところではある。だが、思考の転換は必要。「コードは量!」である。

プログラミングの良いところは、熟練者でも間違ったコードを書けばエラーが出て、素人でも正しいコードを書けばきちんと動くところである。「なんとなく」は通用しない。

G'sでは「起業」についての講義もある。G'sの児玉さんの講義を受けて、頭をぶん殴られた思いを体感した。今までもっていた価値観をいい意味でぶっ壊された。と同時に、「自分の人生で何を成し遂げたいとか」を常に考えさせられるきっかけになった。サービス(プロダクト)においては、以下の点が重要であると教わった。

・who/what:誰のどんな課題を?

・how:どんな方法で?

・why me:なぜあなたがやるの?

こういった観点で、自分の作りたいサービス(プロダクト)を深堀りしていく必要がある。

また、6月初旬には東京・福岡合同での「JavaScript選手権」が実施された。東京・福岡6名ずつの選抜で行われたこのイベントでは、衝撃の連続だった。同じ時期に入学した人たちのプロダクトの完成度があまりにも高かったからである。

ここで大事なのは「今の自分の立ち位置を知り、これから登っていく」ことだ(G'sの山崎先生twitterより抜粋)。他者と比較し自分を卑下するのではなく、むしろその技術を盗み自分色に染め上げるくらいの気概が必要である。

思えばこれまでの人生で、他の人と比べて自分を卑下することに何の意味もないことは分かっていたはず。塾講師時代、自分より能力が高い生徒なんて山ほどいたし、今だって自分より頭の回転が速い人ばっかりだ。だったら、うまくやっている人たちのやり方を真似すれば良い。何よりも、自分のフィールドでなら戦える部分はたくさんあるだろう。「JavaScript選手権」を見てそう思った。

who/what, how, why meについて、現時点では以下のようにストーリーを描いている。

・why me(起):逆境を呪った10代。主体的に動くことが自分らしさだと気付いた20代。

・who/what(承):自分と同じように環境に左右されている10代の子供に、自己表現と行動の大切さを教えたい。

・how(転):セルフプロデュースできる場とツールを与える。具体的には、10代の子供でも簡単にアイデアシートを作成できるツールを作り、自己表現できる場所を設ける。

・why me(結):逆境に左右されず、主体的に動くことができる人間を作る。ひいては、そういった前向きで行動的な人たちで構成されたコミュニティを作りたい。

実は1年前、高松市の商工会議所主催のイベントに参加させていただいた経験がある。そこでは、小中学生対象の「プレゼンテーション体験講座」を実施した。「教えることは学ぶこと」をテーマに、子供たち各自でテーマ設定、keynoteでスライド作成、プロジェクターを用いてプレゼンテーションしてもらった。僕はスライド作成と発表の補助を担当。



参加者はもちろん、保護者からの反応も上々。高校生からも実施してほしいとの声が。思えば日本の教育においては自己表現の機会があまりない。だから大人になってもプレゼンが上手じゃない人が多いのではないだろうか。セルフプロデュースがうまくできれば、自信につながるんじゃないかと思った瞬間だった。

今後は、卒業制作に向けて、自己表現をアシストできるツールとサービスを作ることができればと考えている。そのためにも、目の前の課題と向き合い、コードを書くことが今できることだ。とにかく行動(code)である。

⑤【結論】

ここまで具体化できたところで、今一度【仮の結論】に立ち戻りたい。

なぜG'sに入学したのか?

「外の世界が知りたかったから」

「自立したかったから」

「本気でセカイを変えたい人たちに出会いたかったから」

確かに都会の方が活力あふれる人の割合が高いとは思う。でもそれは香川にいてもそういった人たちを選んで付き合っていればできることだとも感じる。「自分の意志で進路を選び、自分の意志で住む場所や環境を変え、自分の意志で友人を変え、自分の意志で仕事を変え、自分のあり方を意志を持って変えていく事がセカイを変えられると信じられる事に繋がっている」(G'sの児玉さんtwitterより抜粋)。

あこがれや口先だけでは何も成し遂げられない。信頼(trust)だけでなく信用(credit)される人間になるために行動しよう。そのためにG'sに入学した。

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