誠実な対応と優しい笑顔で、社内外からの信頼も厚い浅岡さん。昨年にプロサッカー選手としてのキャリアを終え、ビジネスアスリートとして歩み始めた彼を支えているものは、苦しみながらも全力で駆け抜けた19年間の競技生活の中にありました。
【目次】
■浅岡大貴さんプロフィール
■5歳からサッカー一筋で過ごした青春
■サッカーで味わった2つの挫折
■同期の縁と社長の行動力に惹かれてTENTIALへ
■家族に活躍を喜んでもらえるようなセカンドキャリアを目指したい
浅岡大貴プロフィール
筑波大学卒業後、アルビレックス新潟シンガポールでプロ選手選手としてプレーし全試合に出場。
その後Jリーガーを目指して帰国するも夢は叶わず、関東1部リーグ所属の東京ユナイテッドFCでサッカー選手兼ビジネスマンとして活動した。
その頃に「競技の外からも自身の価値を高めたい」と思って始めたブログがきっかけで、中高時代の同期である石川と再会。石川がTENTIALメンバーであったことや、TENTIALがアスリートのセカンドキャリア支援に取り組んでいることもあり、TENTIALにジョイン。
昨年、現役サッカー選手としての生活に区切りをつけ、ビジネスアスリートとして生きていくことを決意。
現在は、TENTIALで財務、経営管理、営業、カスタマーサポートを担当するなど、幅広く活躍している。
5歳からサッカー一筋で過ごした青春
筑波大学では優勝も経験
母親に近所のサッカークラブに連れられ、サッカーを始めた浅岡さんは5歳の時からまさに「サッカー漬け」の人生を送ってきました。友達と遊ぶ時間も惜しんでクラブや父親との練習に明け暮れ、小学校6年のときには、将来の日本代表を育てるプロジェクト「JFAアカデミー福島」のセレクションに合格。本格的にプロサッカー選手への道を歩み始めました。
13歳で親元を離れた浅岡さんを待っていたのは、想像以上に辛い寮生活でした。毎朝6時に起きての練習、学校から戻ったら再び練習、そして夜まで続くアカデミーのプログラム。規律を求められ自由の少ない寮生活と、一人で過ごす夜の寂しさに、涙を流しながら寝たこともあったそうです。
そんな厳しい寮生活にも慣れ、自立した大人への階段を登っていた浅岡さんを、今度はある大きな出来事が襲います。2011年3月11日に起きた東日本大震災です。
「ちょうど中学の卒業式を終えた日の午後でした。みんなで卒業式から帰ってきて、想い出をまとめたビデオを見ていたときに、地震は起きました。いままで経験したことのない強い揺れに、不安と恐怖に襲われました。しかも電気もつかないし、食べ物もなくなった。それまで当たり前だった生活が、実は当たり前ではなかったことを初めて感じました」
と当時を状況を振り返ります。
この時に同時に発生した福島第一原子力発電所の事故の影響を受け、Jヴィレッジ福島は封鎖され、国が管理する原発事故の対応拠点となってしまいました。運命に翻弄されながらも、浅岡さんは、高校時代を静岡にある時之栖(ときのすみか)アカデミーで過ごし、アカデミーの仲間や、Jリーグのユースチームとしのぎを削ります。大きく成長をとげた浅岡さんは、その後、サッカーの名門・筑波大学に進学。筑波大学では、ボランチやサイドバックとして関東リーグやインカレで優勝を経験しました。
サッカーで味わった2つの挫折
こうして、サッカー界のエリート街道を歩んでいた浅岡さんですが、22歳の時に人生で初めての大きな挫折を経験します。Jリーガーになるために受けたセレクションはどのチームも不合格。人生をかけて積み上げてきたものが認められませんでした。
「小さい頃から、プロサッカー選手になるのは当たり前で、どうやってその世界で活躍するかが重要だと思ってプレーしてきました。だから、Jリーガーになることができないとわかった時は、ただただショックでしたね。でも、いま振り返ってみると、監督の指示通りにプレーができる一方で、『これだけは負けない』というセールスポイントが少ない選手だったんです。周囲のレベルが上がる中で、自分独自の技術や、周囲との違いをアピールできなかったんだと思います」
周囲から見れば、わずかな差だったかもしれません。でも、浅岡さんは、そのわずかな差が人生を大きく変えてしまうことを知り、その差を埋めるべく、アルビレックス新潟シンガポールに入団して、プロ選手としてのキャリアをスタートさせます。
アルビレックス新潟シンガポールには、23歳までしか在籍できないという年齢制限がありました。当時22歳だった浅岡さんには1年しかチャンスはありませんでしたが、主力選手として全試合に出場し、見事に公式戦無敗で優勝を果たします。再び得た自信を胸に、Jリーガーになるためにセレクションに挑みます。「契約を勝ち取る!」と意気込んで、Jリーグチームの練習に参加した浅岡さんですが、そこで浅岡さんに待っていたのは、1年前と変わらぬ現実でした。
「契約してもらえそうなところまでいったのですが、結局は見送りになってしまいました。 “イケる”という手応えを掴んでいただけに、自分の実力に限界を感じました」と、再び大きな挫折を味わうことに……。
念願のJリーグ入りを果たせなかった浅岡さんは、最後の可能性にかけ「Jリーグを目指していることや、レベル高い選手が揃っていて、チームに可能性を感じ」、関東1部リーグの東京ユナイテッドでプレーすることを決めました。そこでプロ選手としてプレーしながら、「プレー以外の価値も高めていきたい」と考えてブログを始めたのもこの頃からでした。
同期の縁と社長の行動力に惹かれ株式会社TENTIALへ
すると、そのブログが、思わぬ運命をたぐり寄せます。JFAアカデミーの同期で、TENTIAL社員として働いていた石川さんが偶然に浅岡さんのブログを見つけ、それがきっかけで、数年ぶりに再会を果たすことになったのです。
石川さんがTENTIALで新しい挑戦をしていることを知り、「自分も競技以外のことを学んでアクションを起こしていきたい」と考えるようになった浅岡さんは、TENTIAL代表の中西裕太郎さんと対面し、その行動力と熱意に心を動かされました。そして、自らもTENTIALへの参画し、新しい挑戦を始めることを決めたのです。
こうして浅岡さんは、東京ユナイテッドで1年間プレーしたのち、2019年シーズンを最後に選手として引退し、ビジネスアスリート一本で生きていくことを決意しました。この時の決断について聞いてみたところ、意外にも浅岡さんの気持ちは晴れ晴れしていました。
「サッカー以外の世界に触れて、新しいやりがいを見つけられました。だから喪失感のようなものは全くありませんでした。今の目標は株式会社TENTIALの上場。サッカー通じて学んだことを生かしながら、『本気で目標を達成したい』という志を持った仲間たちと、ゴールに進んでいけるように頑張りたい」と、セカンドキャリアでの成功に意欲を見せています。
家族に活躍を喜んでもらえるようなセカンドキャリアを目指したい
浅岡さんは、現在、財務、経営管理、営業、カスタマーサポートと、幅広い業務に携わりながら、会社の中核を担う人材として充実したキャリアを歩んでいます。
財務・経営管理では、まだ担当になったばかりにもかかわらず、「会社を内側から見ることができ、経営者の視点を培うことができるため、営業とはまた異なった魅力を感じています」と未知なる世界にも、強い好奇心を見せています。また、営業部門の責任者として、メンバーのマネジメントを行いながら、自ら企業や代理店、全国のイベントに足を運び、インソールの導入・販売を行っています。「購入前から購入後まで一気通貫してお客様の支えになるという姿勢を大切にしている」と言うように浅岡さんは、購入したお客様への事後サポートも欠かしません。お客様一人一人の声に耳を傾けながら、一緒になって課題を解決するために、商品を丁寧に届ける姿勢があるからこそ、お客様からも喜んでもらっているのでしょう。
「ここまでサッカーを続けられたのは、家族の応援のおかげ。サッカーの試合を観に来て、活躍を喜んでくれたのは大切な想い出です。仕事でも同じく家族に喜んでもらえるように、新しい道で頑張っていきたい」。
「自分だけの武器を見つけられなかったことがJリーガーになれなかった原因」と自己分析していた浅岡さんですが、こうして彼が結果的に手にしたのは、愚直なまでの「実行力」でした。強力な武器を手にした浅岡さんは、いまビジネスの世界での飛躍を誓います。浅岡さんの逆襲はもう始まっています。
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