RT代表 城山の起業ストーリー
この12年は振り返る必要がある
こんにちは。城山です。
私が今やっている事業についての説明ももちろん大事なのですが、これまでやってきたこと、その経緯を含めちゃんとお伝えするのも大事なことかなあと思いますので、ここでお伝えしますね。最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
内視鏡エンジニアとして就職
2008年、リーマンショック前、記憶する限りではまぁまぁ良い景気だったことを覚えています。
そして、私は大学院を卒業し新卒で、レンズを作る会社に入りました。フジノンという会社です。カメラに詳しい人には有名です。当時は富士フイルム系の医療内視鏡はフジノンが作ってました。そして、医療内視鏡は世界でもオリンパスがトップシェアを持ち、それに続いてフジ、HOYA(当時はペンタックス)という日本の会社が独占していました。最近の状況はよくわからないですが、オリンパス一強はあまり変わってない気がします。
なぜ、医療内視鏡メーカーに入ったのか? 大学と大学院時代の講義内容や研究内容が医療だったこともあります。とはいえ、自然と目が向いていた、という感じでしょうか。
医療分野で世の中に貢献したい!
残念なことにドクターにはなれる要素を持ち合わせてなかったので、モノづくりで、という感じです。
モノづくりは父が機械のスペシャリストだったこともあり、私も好きでした。
実際、仕事の内容はとても面白く、知らず知らず研究開発や病院の現場周りなどに没頭していました。
学会にもよく行かせてもらい、医療に触れている仕事という感じが自分でもとても合っていると思っていました。
しかし、ことは急展開します。
「結婚」です。
しかも婿入りです。
人生は分からないものです。
婿入りからの下積み開始
妻は私が19歳の時からの友人です。
妻の実家は愛知県でパチンコホールを経営しており、義父が当時は社長。
それは知っていたし、自分にとってあまり興味のないことでした。お金持ちなんだなぁ、というくらいの感覚でした。
ですが、こともあろうか付き合うことになり、めでたく結婚してしまったのです。
上司や同期など周囲の反対もあったり、父も心配してましたね。母はあまり心配してなかったようですが、口にしてなかっただけかもしれません。
当の本人は、「まぁなんとかなるだろう」と、あまり不安に感じてはいませんでした。
この「まぁなんとかなるだろう」は今となっては身を助けてるような気もします。
ですが、そんなに平和にもいかず。。
まったく知らない業界で突然働くわけですから、周りの人たちもそれは大変だったと思います。なんとか慣れさせようといろいろ動いてくれました。それは今でも感謝です。
まず最初は義父の会社ではなく、同業界の違う会社で働くことになりました。いわゆる下積み修行です。正社員で採用とはいえ、パチンコの店舗ではあまり関係なく一番下っ端からです。若いアルバイトスタッフの子に舌打ちされる日々。まぁ動きが悪かったので当然です。
ただそういう日々は2年続きましたが、義父の会社の経営状態が良くなく引き戻されたのです。
決算書、財務諸表なんて本でしか読んだことのないような状態でしたから、その当時は何がどうまずい状況なのか理解することはできませんでした。ただ今思い返せば、かなりまずかったと思います。
資金繰り表の1年後が真っ赤でしたからね。
ですが、結果いろいろ紆余曲折あって、その危機は脱しました。
ここは長くなるので割愛しますが、本当に良いファイナンスのコンサルティング会社に出会い、リファイナンスがうまく行き、資金繰りが良くなり、設備投資に資金を回し、社内組織を刷新したことで息を吹き返しました。ミッション・ビジョンの再設定、組織再編、幹部が権限を持ち判断する、風通しを良くする、採用に力を入れる、評価制度を整備する、チャレンジできる環境を用意する、心理的安全性の確保、社内研修などなどいろいろやりました。会社は雰囲気で業績が変わります。上手く回り始めると強い組織へと変わっていきます。私自身、貴重な体験ができ、今の事業展開にも活きてくるでしょう。
そこからはうまく軌道に乗り、幹部を軸に経営はうまくいっています。もちろん新型コロナの影響は少なくともあるでしょうが、それでもこの先も大丈夫だと思います。
起業という経験
そんな中、私は入社した当初から言い続けてきたことがありました。
「新しいことに挑戦しなければいつか衰退し淘汰される」ということです。
義父の会社は中小企業としては、そこそこ上手くいっている方だと思いますが、これまで新規事業にはことごとく失敗をしてきていました。手元に残ったのは、思い出くらい。
それでも本業が何とかなっていたので、真剣味というか、なんとかしてやり遂げようというものが欠けていたのかもしれません。
でもこれからはどうでしょう。
業界は確実に縮小しているし、ユーザーが増える要素が何一つありません。このままでは茹でガエルになってしまうという危機感が業界歴が短いながらも私にはありました。
そういった背景から、結婚してから5年経った時から「起業」という言葉がチラつき、いろいろ動き始めていました。
会社を一つつくり、不動産賃貸、売買、フィットネスなどを行いました。事業で得られた収益を、オランダで友人が始めたベンチャー企業に出資し、その事業メンバーとして、欧州へ行きながら事業を一緒に行ったりもしました。フィットネスは妻とも一緒に立ち上げをやり、東京広尾に店舗を構えるまではよかったですが、見通しが甘く、マーケティングなんて全くの皆無、知識も無い状態で裸で激戦地の戦場に出て行ったため、丸裸にされ愛知に帰ってきました。
ここの話はもっと長いですが、これも割愛します。
このあたりぐらいから、ようやくちゃんと大きな事業になるものを一から立ち上げ、そして、「なんとかなる」ではなくちゃんと勉強しながらやってみようという意識に変わりました。
さらに大事なことの一つに、人話を聴くということも学びました。東京で失敗した当時の自分は耳障りのいい言葉にしか耳を貸してなかったという反省があったためです。
どれも当たり前のことなのですが、それすらできていなかったから当然の報いとして失敗があったのだと。ただ、なぜなら借金があったので、しばらくは新しいことはやめておこうという気持ちも割と大きかったのは事実です。
あれこれやってきて山あり谷ありだった中、ずっと仲良くしていた友人がいました。
それが今の事業のパートナーである吉澤です。
吉澤の存在
吉澤は、この道13年の建築屋です。
お父さんが職人だったところで自分がそれを事業化し、会社を起こして、汗水流していました。
出会ったのは私が最初の起業をした2014年頃だったかと思います。愛知地場のスーパーやショッピングモールを展開しているユニーの会長だった西川俊男さんが塾長を務めていた経営塾の仲間でした。
年齢は吉澤の方が4つくらい上ですが、何となく同世代ということもあり、塾の中では一番親しくしていました。塾は西川さんが急逝し私は縁遠くなっていましたが、それでもことあるごとに連絡を取ったり、飲んだりしていました。
そんな吉澤は、建築業をやりながら良く将来やりたいことや、業界の問題を教えてくれました。
私も元々理系で開発にいたこともあり「アイディアはとりあえず先に特許出しとくといいよ」なんていうテキトウなアドバイスもかれは愚直に実行したりしてて、本気なんだと側から見て思ったりしていました。
そんなある日、割と真剣に相談があると、事業の構想を話したいから合宿をしようと誘われました。
温泉行けるし、そういうブレストみたいなのは好きだし「いいね!」と返事をしたのが2018年です。
そこで、彼が何をしたいのか、どんな世界にしたいのか、何がその具体的な方法なのか、を一緒に話しました。
当時行ったのは長野県安曇野の温泉で、めちゃくちゃ良かったです。温泉が。。
ちなみにこの合宿の時にはすでに社名である「RTプロジェクト」は私が思いつきで決めてしまっていました。
ロゴまで書いてインスタに上げています。
Rは良亮で、Tは朝春で、語感と、いちおう吉澤は先輩なんでこの並びにしてあります。
そこで話したこと、画用紙に書き出したことはいくつかありますが、よく覚えているのが「現場で汗ながして働くみんなにスポットライトを当てる」「ぼくたちがその舞台を用意する演出家になる」という言葉でした。
これは私の経験も強くリンクしています。
パチンコの店舗で下積みしていた時に来てくれる建設現場のお兄さんたち、現場で働いてたけど怪我して働けなくなったからパチンコで働いている仲間、そんな汗水流してた人たちの存在が肌身に感じて分かったからです。
3Kなんて言われて、それでもなかなか暮らしは大変な仕事、それが建設です。
吉澤はそれを13年やってきてますから、課題、というか苦しさを痛切に感じてきたわけです。
そこに私は共感し、「じゃあやってみよう」と事業に乗りました。
RTプロジェクトの誕生です。
そこからは何もわからない二人でもがいて道を開いていくことになるのです。
IT建築屋の歩み出し
もちろん私たち二人、コードは書けません。
私は学生時代に少しは触りましたが、C言語やVBなんて何の役にも立ちません。
そこで、人探しからの始まりです。
自分たちが何を作りたいかのすらぼやけているのに、エンジニアを探すのは一苦労です。
今思えば話される相手もこっちが良くわからないものを相談されるのだから理解するのが大変だったろうと思います。
どこに相談していいかすらわからない中でしたが、何とか人伝いにエンジニアに出会うことができました。これも何かの縁で、フィットネス立ち上げ時代にエクササイズDVD制作を依頼したデザイナーの知人が、ITやってる面白い人いるから一緒に飲もうという感じで飲み友になった人物が、中田でした。
中田は豊橋でエンジニアをやっていて、私と吉澤の話を理解して、なんとかできそうだと、話に乗ってくれたのです。ありがたかったですね。
ここからはまさに見様見真似で、アプリ開発が始まったのです。2018年の年末でした。
吉澤がイメージをイメージのまま口でしゃべり、私がプロジェクトマネージャーの役割を、それを言語化、仕様書みたいなものに落とし込み、中田が他のエンジニアも連れてきてそこで実際にコードとして書いていく。少しできたらテストを触ってみる。ということの繰り返しでした。
そんな中でも、何とか一つのモノができたのが、2019年の6月頃でした。
スタートアップとしての挑戦
そんなやりとりを繰り返しながら、プロトタイプが完成しました。
当時のものはアプリというには全然言えない代物で、動きもぎこちなく、Webアプリでしたし、PCに直接繋いでダウンロードさせたりしながらなんとかiPhoneに入れて動かしてました。
今もその当時のデータベースなどは基礎として使っていますが、今の面影はありません。
ですが、何とかできた0号機が動いた時は嬉しかったですね。
当時は今のベータ版アプリには搭載されていないチャットや日程調整機能があったりして、何もないところからよく中田くんもがんばってくれたと思っています。
そんな0号機が出来たあと、一つの疑問が出てきます。
これからどうしたらいいの?
そうなんです。私は、元来の性分で作ることに熱中しすぎて、その先の展開をまったく考えていませんでした。
そこで、またいろんな方に相談し、こういうビジネスはどう展開していくのが良いのか聞きました。
そこで紹介されたのが、愛知県がベンチャー支援事業として行っていた「AICHI STARTUP CAMP」でした。
早速吉澤と相談して、それに参加することにしました。
私は説明会の日程などが合わず、何をやるかほとんど把握せず、当日会場に行ったのを覚えています。
30名程の参加者がおり、みんな若い起業家でしたから、35歳を超えた私と吉澤はやや年長組でした。
そこで、ほぼ初めて「スタートアップ」という言葉の意味を学んだと思います。
スタートアップという言葉はもちろん知っていたし、知っているつもりでしたが、どんな風に事業を進め、成長していくのか中身をまったく知らなかったのです。
RTプロジェクトは、ここからスタートアップとして、歩んでいくことを始めるのです。
その時手にしていたのが、半年かけて作った0号機こと「現調くん」(現GENCHO)というWebアプリのテスト版だったのです。
それを手に、キャンプのプログラムの中でピッチというものをし、講師陣から「それSlackじゃだめなの?」と今でもたまに受ける質問をいただいたのを良く覚えています。
「ダメなんです。現場の人はSlackなんて誰も使いません。」
キャンプのプログラムの内容がとても良く、そこからピッチの登壇の機会をいただいたりしましたし、今でも愛知県のスタートアップ推進課の皆さん、キャンププログラム運営のツクリエの皆さんには本当にお世話になってます。
新しい舞台と新しいステージの始まり
そこからは今に至る道が始まりました。同じく愛知県の支援事業に採択され事業拠点をWework名古屋に移すことができ、そこでまた新たな起業家たちと出会うことができました。
支援事業「ステーションAi早期拠点」(現プレ・ステーションAi)の第一期生になったのです。
ここで出会った仲間からは本当にいろいろなことを学びました。
もちろんスタートアップとしてステージが先行しているメンバーもいるし、私と同じように事業を軌道にのせるためにもがいているメンバーもいる。メンターもいて本当に良い環境に身を置くことの大切さを感じました。
そして、今は第二期になり、起業家も増え、メンターもより強力になりました。
私たちも、1年目とは違って結果を出さないとならない年です。
アプリもベータ版を2020年10月にリリースしてからアップデートを重ねてきました。
より大きなピッチにも出させてもらえるようになりました。
資金調達にも動き出しました。
採用にも動き出しました。
素晴らしい投資家にも出逢え、開発も営業も仲間が増え、私もとにかく無我夢中で失敗や反省を繰り返しながら、たまに起こるハッピーなことを糧に日々をなんとか乗り切っています。
私は、過去に事業を何か進めてきた時に時々思うことがあるのです。
日々前だけを見て進んでいますが、たまに振り返り、「あぁなんとかここまできた。だからもっと前に上に行ける!」と気持ちを新たにするのです。
今この瞬間はまだもがいていて、成果もなかなか見えない中にいるだろうけど、きっとこの先、今を振り返りやってきたことを笑い合えたり、誇りに思える時が来ると思っています。
その今しか味わえないあの感覚を共有するメンバーに出会いたいと思っています。
私は、結婚して内視鏡の会社を辞めた時、野心的に思っていたことがあります。
「自分にはもっと大きな舞台があるのかも」「必ずそこへ行こう」と。
今のRTプロジェクトの事業は絶対に大きくなります。
大きな舞台、まずは上場を目指し、そこへ行こうと決めています。
そして、自分がいる今より未来の世界がもっと良くなるように、もっと大きな舞台へ行くと決めています。
今を共にする新しいメンバーを探しています。
最後に…
建築Techをリードする企業になるためには多くの仲間が必要です!!
是非一度お問い合わせ頂けたら幸いです!!
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